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 こころ、ふたつ​


 リンハルトは、自分が異性と同性に対して性的な魅力を感じる質であることを理解していた。
 性愛に対して他国ほど制限がない帝国では、そういった人たちともしばしば関わることがある。だからそれをおかしいだとか、隠しておくべきだとかは思ったことはない。
 とはいえ、いずれにせよ好みの傾向はあるし、特に同性に対しては異性ほどその手の魅力を感じないことが多かった。
 リンハルトが惹かれた相手がその好意に応えられる可能性も低く、結果として周囲には異性にしか興味がないと判断されているのだろう。
 そして、カスパルは自分が性的に好む範疇ではないと、リンハルトは思っていた。
 好みであるとかないとかの以前に、家族のように育った幼なじみにそのような気持ちを抱くわけがないという思い込みがあったのだろう。
 カスパルのことを、子供だと思っていたからというのもある。
 リンハルトとカスパルは同い年であるし、カスパルのほうが数節早く生まれていることは知っているが、カスパルは体も小さく、精神面にも未熟な部分が多かったから。
 リンハルトの身長が伸びてきて、関節の痛みに悩まされるようになった頃も、カスパルのつむじはリンハルトが見下ろすような位置にあった。
 リンハルトの手が大きくなって、筋が浮かんで骨ばってきたときも、カスパルの手はまだふにふにとやわらかくて、しっとりと湿っていた。
 リンハルトが異性に興味を持つようになって、逢い引きをするようになったときも、カスパルは鍛錬にしか興味がなくて――そんなところも未熟で子供のようだと感じていた。
 そんなカスパルを「そういう目」で見ているのだという自覚を得たのは、五年ぶりにカスパルと再会した日の夜だった。
 ガルグ=マクの戦いのあとベルグリーズ家と絶縁したカスパルは、どこかに消えたあと連絡のひとつもよこさなかった。彼の家族ですら彼がいまどこでなにをしているのか、生きているのか死んでいるのかもわからないという状態だったのだ。
 約束の地で五年ぶりに再会したカスパルは、別人のように精悍な青年へと成長していた。リンハルトよりいくぶんか下にあった目線もずいぶんと近くなったし、細かった体は厚い筋肉に覆われていた。
 大人に、なったのだと思った。
 夜になり、平服を脱いで薄着になったカスパルを見たときのことだ。
 その喉仏だとか、逞しい腕だとか――そういったものが、リンハルトには妙に艶めかしく映ってしまったのである。
 リンハルトはそんな自分に動揺した。
 五年の歳月が、自分とカスパルを「他人」にしてしまったのだろうか。「他人」になったから「そういう目」で見てしまうようになったのだろうか。リンハルトにはわからなかった。
 ただ、カスパルのことを性的に意識するようになったことだけは事実で――それはひどく憂鬱な出来事だった。
 カスパルはなにも知らない。リンハルトが抱いている劣情も、胸の内に渦巻く暗い感情もなにひとつ知らないまま、五年越しに再会した幼なじみとの再会を無邪気に喜んでいる。
 リンハルトは、カスパルとは親友でありたかった。だからこの想いは口にせず胸の奥へとしまい込み、そのうち風化するのを待つべきだと思った。
 ……それができるほど自分の気持ちが穏やかな感情でないことを理解したのは、再会してから数日後のことだった。

「……あれ」
 リンハルトに旅先での武勇伝を語り聞かせていたカスパルが、なにかに気づいたようにふいに言葉を止めた。
「それ、まだ使ってたのか」
 訝しみながら首を傾けるリンハルトの後頭部をカスパルが指で示す。
 その先にあるものが自分の髪紐であることに気がついたリンハルトは、まるで心を見透かされたような気がして息を呑んだ。
「……ああ、うん。使い慣れてるから」
 カスパルの視線から逃れるようにリンハルトは目を伏せる。
 それは幼い頃にカスパルから貰った髪紐だった。
 貰った、と言ってもきちんとした贈り物として貰ったわけではなく、カスパルが適当に結いつけていったものをそのまま使い続けているだけだ。
「懐かしいな」
 カスパルは目を細めて懐かしそうに笑う。
 眩しいものを眺めるようなカスパルのその笑顔に、リンハルトはまた胸がざわめくのを感じた。
「うん……そうだね」
 リンハルトはそんな心情を表情には出さずに頷く。
 カスパルの笑顔に、リンハルトはとても弱かった。彼に笑顔を向けられるとなんでも許してしまいそうになるし、自分の悩みだとか葛藤だとかが、ひどくちっぽけなものに思えてしまうからだ。
「君こそまだ持ってたんだね。そのお守り」
 これ以上この話題を長引かせないように、リンハルトは強引に話を逸らした。
 リンハルトの言葉が示すものが何か察したカスパルは「ん?」と曖昧な返事をしつつ、腰から下げているお守りに触れる。
 それはずっと昔に、リンハルトがカスパルにあげた雷避けのお守りだった。雷を怖がるカスパルのために、自分の魔力を少し込めて作った特製品だ。
 カスパルは昔から雷が苦手で、子供の頃はよくリンハルトの寝台に潜り込んできたものだった。ひとつの寝台でぎゅうぎゅうに身を寄せ合い、雷鳴が聞こえるたびにカスパルは怯えてリンハルトの腕にしがみついていた。
「ああ、なんかもったいなくってな」
 カスパルはからからと笑いながらお守りを指先で軽く撫でる。
 その笑顔にまた胸の奥がざわめいて、リンハルトは法衣の胸元を握りしめた。
「一人で旅してるときもさ、これを持ってるとお前のことを思い出せるからな。親父や兄貴とは絶縁しちまったし、オレにはもう帰るところなんてねえけど……リンハルトは相変わらずなんだろうなって思ったら、なんか安心するんだよな」
 滔々と語るカスパルを前に、リンハルトは自分の中に灯った小さな火が熱を持つのを感じていた。
 ――自分の気持ちを知ってほしい。そのうえで受け入れてほしい。
 今まで自分の中にはなかったひどく傲慢な想いが、腹の底から込み上げてくるのをリンハルトは感じていた。自分の中に生まれたこの気持ちを、無かったことにはしたくないと思ったのだ。
「カスパル」
 リンハルトはことさら明瞭にカスパルの名を呼ぶ。
 その空気の変化に気づいたのか、カスパルは神妙な面持ちを浮かべた。
「僕、男の人が好きなんだよね」
 突然の告白に、カスパルはやや驚いたように目を瞬かせる。言葉の内容そのものよりも、いまその話を切り出すことに対して驚いているのかもしれない。
「ああ……それは、なんとなくわかってた」
 しばし思案するような表情で沈黙したのちに、カスパルはぽつりと呟いた。
 隠していたわけではないが、わざわざ公表することでもないと考えて、リンハルトは自分の性的指向を同性の交際相手以外には話したことがなかった。
 それゆえに親ですらリンハルトの性的指向に気づいているのかは怪しいが、妙に目敏いところがあるカスパルは気づいていたらしい。
「わかってて僕といてくれてたんだ」
「そりゃあ、避ける理由ないからな」
 リンハルトの問いかけをカスパルはこともなげに返す。
 カスパルは幼い頃から自分の感情をはっきりと口にする性格だったから、リンハルトと距離を取りたいと思えば素直にそうしていただろう。
 それがなかったことを嬉しく思うと同時に、そうであったならいまこうして悩むこともなかったのかもしれないと恨めしくもなった。
「それを踏まえた上で言うんだけど……僕、カスパルのことが好きみたいだ」
 その言葉を口にするのに、リンハルトはひどく緊張していた。口の中がからからに乾いていくような感覚を覚えながら、カスパルの返事をじっと待つ。
「……そうなのか」
 その短い答えにどんな意味が込められているのかは、リンハルトにはわからなかった。カスパルは困ったように眉根を寄せて、少し俯いて言葉を続ける。
「……悪ぃ」
 拒絶とも取れるカスパルの返事に、リンハルトの胸の奥がずきりと痛んだ。息苦しささえ覚えてしまい、目の前の景色が霞みそうになる。
 自分の抱えている想いとカスパルの想いが違うであろうことも、カスパルがそういった感情に応えることが苦手な性質であることも、リンハルトは理解していた。
 カスパルに想いを拒絶されたとしても、それはリンハルトが嫌われたのではなく、ただそういう性質なだけなのだ。そのことも充分に理解しているつもりだった。
 そうであっても、リンハルトは一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
「……そっか」
 なにか言わなければと思うのに、唇からはなんの言葉も出てこない。
 ただ俯くだけのリンハルトの前で、カスパルはゆっくりと顔を上げた。その表情はひどく思い詰めた色を浮かべていて、リンハルトは思わず息を呑む。
「……オレさ、よくわかんねえんだよな」
「わからない?」
 カスパルはリンハルトから視線を逸らすと、また少し考え込むように沈黙する。
 そんな幼なじみの表情を見たことがなかったリンハルトは、ただただ目を丸くして言葉の続きを待った。
「お前の気持ちに応えてやりたいって思うんだけどさ……なんか、違う気がするんだよな」
 カスパルの言う「違う」がなにを指すのか、リンハルトにはわからなかった。ただなんとなくではあるが、自分とカスパルの気持ちにずれのようなものがあることだけは察することができた。
「……違うって?」
 そのずれがなんなのか知りたくて、リンハルトはカスパルの言葉の先を促す。
「それがわかんねえって言うか……リンハルトのことは確かに好きだけど、お前と同じ意味の『好き』じゃないかもしれねえ」
 リンハルトの問いかけに、カスパルはひどく困った様子で眉尻を下げた。
「オレはたぶん、お前みたいな気持ちになったことがなくて……だから、お前がどういう意味でオレに『好き』って言ったのかわかってやれない気がするんだ」
 カスパルはそう言葉を絞り出すと、ひどく申し訳なさそうに眉根を下げて俯く。
 カスパルの表情を見れば、それが拒絶の言葉を緩和させるための社交辞令ではなく、本心からの言葉であることはリンハルトにも理解できた。
「わからねえのに、いいとか駄目とか答えるわけにはいかねえだろ? だから、答えが出せなくて悪ぃなって思ったんだ」
 カスパルは顔を上げ、まっすぐにリンハルトを見つめた。その真摯な瞳には、ただ申し訳なさと戸惑いの色が滲んでいた。
 カスパルの言葉には裏も表もない。あるのは、リンハルトに対する誠実な気持ちだけだ。
 その思い遣りを痛いほど感じながら、リンハルトは空色の瞳を見返す。
「……そっか。じゃあ、答えがわかったらそのときにまた教えてくれないかな。時間がかかっても構わない。いつまでも待ってるよ」
 リンハルトの言葉に、カスパルは安堵したように息を吐く。
 リンハルトとカスパルの「違い」が生来のものであるとするなら、この先カスパルがリンハルトの言葉の意味を自分の感情として理解する日は来ないのかもしれない。
 それでも、リンハルトは待つことにした。
 カスパルの誠実さに応えたいと思ったのだ。
 カスパルがリンハルトの気持ちを理解することがあったとして、その相手が自分であったなら――リンハルトはそんな希望を抱きながら、まだあどけなさの残る幼なじみの笑顔を眺めていた。

 形のないもの


「カスパル、僕と結婚しない?」
「へっ?」
 リンハルトの唐突な提案に、カスパルは肉料理を食べていた手を止める。
 周囲に座っていた生徒の一部が何かを期待して二人のほうへと振り向くが、声の主がリンハルトとカスパルであることに気がつくと、あからさまに落胆した様子で視線を戻した。
 おそらくは男女の甘いやりとりを期待して振り向いたのだろうが、「いつも不可解なことを言っているリンハルト」と「いつも騒いでいるカスパル」という組み合わせにその期待は儚く散ったようだ。
「いきなりなんだよ?」
「いやさ、このあいだ目安箱に匿名で悩みを投函したんだよね。『家を継ぎたくない、どうすればいいですか』って。そしたら、先生から『嫡子ではないカスパルを養子にすればいい』って返事が来たんだよ」
「それもう、投函したやつがお前だって気づいてるだろ先生」
 カスパルは再び肉にかぶりつきながら答える。
 リンハルトは「どうだろう」と肩をすくめて、皿に盛られた料理を口に運んだ。
「うちの親は養子を取る気はないみたいだから、カスパルを養子にするためには僕と結婚するしかないかなって」
「いや、オレを養子にする手段を考えるより、まずオレがヘヴリング家を継ぐ人間にふさわしいかを考えろよ。オレは嫡子としての教育も受けてないし、紋章もないし……どう考えてもふさわしくないだろ」
「教育はいまからでも受ければいいよ。僕もあまり真面目には受けてないし。それに、紋章は近い将来、重要ではなくなると思う」
 エーデルガルトが皇帝に即位すれば、貴族や紋章に関わる制度には大幅な改革が加えられるだろう。
 貴族制度自体が廃止されるのであれば、リンハルトが養子を探す必要もなくなるわけだが――現状、高度な教育を受けられる層が貴族や富豪に限定されている以上、エーデルガルトの代だけで完全に貴族と政治を切り離すのは不可能だと予測できた。
「それはそれとして、とりあえず結婚しない?」
「いや、なんでだよ」
 なおも食い下がるリンハルトに対して、カスパルは心底理解できないという顔をしている。
 リンハルトも「なんで」という質問の返答が見つからず首を捻った。
 確かに、なぜ自分はカスパルと結婚したいのだろう。ヘヴリング家の後継者が必要なのは確かだが、カスパルの言う通り、カスパルより適切な人物はいるはずだ。
「……なんでだろう?」
「知らねえよ! オレが訊いてるんだろ」
 とぼけた返答にカスパルは呆れた様子を浮かべた。
 リンハルトが食器を皿の上に置き、カスパルも食事を終える。料理が盛り付けられていた皿はすべて空になっており、調味料だけがわずかに残されていた。
「とりあえず、食べ終わったし出ようか」
「そうだな」
 席を立ち、空になった食器を返却口へと運ぶ。厨房で料理を作っていた料理人に礼を言ってから、二人は食堂を後にした。
「……うーん?」
 リンハルトは歩きながら首を捻った。
 食堂から出たからには解散だ。今日はもう授業がないし、カスパルとは部屋のある階層が違うため、これ以上一緒にいる理由はない。
 だが、このまま別れるのはどうにも惜しい気がした。
「そうか、わかったよ」
 リンハルトは足を止め、カスパルへと向き直る。
「僕はカスパルと離れたくないらしい」
 リンハルトの言葉にカスパルは面食らったような表情を浮かべた。
「だから結婚しようか?」
「いや、だからなんで結婚になるんだよ」
「だって君と結婚すれば、いつでも一緒にいられるじゃないか」
 カスパルは少しのあいだ逡巡し、何かを言いたげに唇を開いて閉じるを繰り返したあと、今度ははっきりと口を開いた。
「オレ、まだそういうの考えたことねえし……とりあえず今は駄目だ」
「そっか。じゃあ仕方ないね」
 リンハルトはあっさりと引き下がる。カスパルが恋愛ごとに対していい反応をするとは最初から思っていなかった。
「つうか、別に結婚しなくても一緒にいられるだろ? 今までだってそうだったんだしよ」
「でも、カスパルはそのうちどこかに行ってしまうんだよね?」
「まあ、家を継ぐのは兄貴だからな。学校を卒業したら、旅をしながら傭兵の真似事をして暮らすのも悪くねえ」
「……そっか」
 リンハルトは瞼を伏せて視線を落とす。
 カスパルがどこかに行ってしまうのは、嫌だと思った。できることなら一緒についていきたい。けれど、嫡子である自分にそれができないこともわかっていた。
「やっぱり、両親にがんばってもらってきょうだいを産んでもらわないと……もしくは養子を取るか……」
「けっきょくそこに戻るのかよ」
 カスパルは呆れ顔でため息をつく。
 しかし、ぶつぶつと呟きながら思案するリンハルトに思うところがあったのか、しばらくすると遠慮がちに口を開いた。
「……リンハルトも、オレのこと楽でいいって思うのか? 次男は家を継がなくていいよなって、思ったことあるのか? それとも、エーデルガルトみたいに哀れんでるのか?」
「うーん……」
 リンハルトは少し下の位置にあるカスパルの顔をじっと見詰める。
 同窓生と並ぶと異質に見えるほど幼い容姿や小柄な体躯は、彼に課せられた生来の枷が次男という立場や紋章だけでないことを物語っていた。
 リンハルトは、そんなカスパルが自分の将来のためにどれだけの努力を積んできたかを知っている。
 それと同時に、カスパルのようにはなれず自分の境遇を嘆き、その理不尽さを他者への怒りに変えて生きてきた者のことも知っていた。
「別に、羨ましくはないかな。それはそれでめんどうだろうし。かわいそうだとも思わないけど」
 それはリンハルトの素直な気持ちだった。
 家督を継げないことや、紋章がないことを哀れんでいるつもりもない。むしろ、それはひどく高慢な感情であるとすら感じていた。
 ただ、家を継げないために受けるであろう不当な扱いも想像できたし、カスパルの努力が相応の評価をされるべきだと考えるエーデルガルトの気持ちがわからないわけでもない。
 カスパルはリンハルトの言葉に「そうか」とだけ言って頷いた。
「僕はカスパルのそういう、自分の境遇を嘆くことなくひたむきに努力するところが好きだから……次男だとか、紋章を持ってないだとかの部分も含めて好きってことになるのかもしれないね」
「お、おう……なんか、お前に改まってそういうことを言われるとむずがゆいな」
 カスパルは照れたような、困ったような笑みを浮かべる。
 リンハルトはまっすぐにカスパルの目を見てもう一度「うん、やっぱり好きみたいだ」と繰り返した。
「たぶん、僕が言いたかった言葉はこれなんだと思う」
「……それが結婚したがった理由ってことか?」
「うん、そうなるね」
 リンハルトはこくりと頷く。
「結婚なんてしなくても一緒にいられるならそれでもいいけど……僕は家を継がなきゃならない。そして、継いだ後は世継ぎを残すために結婚しろって言われるんだ。その次は子供だ。紋章持ちの子供を作れって言われるんだよ。おまけに、僕がそうしている間にカスパルはどこかに行ってしまうんだ」
「そりゃ、まあ……仕方ねえよな。オレは次男だし、お前は嫡子なんだからさ」
 カスパルは眉尻を下げ、少し悲しそうな顔を浮かべる。次男だから、嫡子だからと割り切れてしまうカスパルの諦めのよさは、リンハルトとは正反対な部分だった。
「僕はそれがすごく嫌なんだよ」
 リンハルトはカスパルの手を取って握り締める。
 斧や籠手を扱うカスパルの掌は少し硬かったが、リンハルトの手よりまだひと回り小さい。記憶の中にあるふにふにとした子供の手とは違う感触に、リンハルトは一抹の寂しさを覚えた。
「家のことなんか何も考えずに、ずっとカスパルと一緒にいられたらいいのにって思う」
 カスパルは困った顔をしながらもリンハルトの手を握り返す。
 そんな顔をさせてしまったことが申し訳なくなり、リンハルトは慌てて「なんてね」と付け足してそれを冗談にする。
「ひとつのところに留まってるなんて君らしくないもんね。縛り付けたりしたら萎れちゃいそうだ」
「なんだよ、それ」
 カスパルはやっといつもの調子で笑ってくれた。
 カスパルを縛ることによってこの笑顔が見られなくなるなら、それはリンハルトの望むところではない。そんな自分の気持ちにたったいま気が付いた。
 カスパルはどこへだって行けるし、どこにいたっていいのだ。その中で、自分の隣という場所がカスパルにとって少しでも居心地がいいのなら嬉しいと思う。
 二人はそれからしばらく手を繋いだままとりとめのない話をしていたが、ふと話題が途切れた瞬間にどちらからともなく手を離した。
 名残惜しい気もしたが、特にこれ以上交わす言葉もない。別れの挨拶代わりに片手を上げながらそれぞれの部屋へと戻った。

 そんな出来事があったのが七年ほど前のことだ。
「リンハルト!」
 ぱたぱたと旅衣を閃かせながら、カスパルは馬の手綱を引いていたリンハルトに駆け寄る。
「あっちの宿なら部屋が空いてるってよ。一人部屋らしいから狭いかもしれねえけど、野宿よりはいいよな?」
 軍務卿の打診を蹴ったカスパルが旅に出ると言い出し、それにリンハルトが着いてゆくと決めてから数ヶ月が経過していた。
 戦後の混乱もあり旅はすべてが順調とは言えなかったが、カスパルの腕力やリンハルトの知恵を駆使してどうにか旅を続けている。
 帝都から遠く離れたこの町には帝国兵が駐留している様子もなく、辺りは長閑な農村の風景が広がっている。遠くに見える山々にはうっすらと雪が積もり、木々には白い化粧が施されていた。
「うん、構わないよ。久しぶりに寝台で眠れるね。あと、ご飯も」
「そうだな! やっとまともな飯にありつけるぜ」
 カスパルは屈託のない笑顔を浮かべながら市街のほうへと足を向ける。
「宿屋のおっさんに聞いたんだけどよ、町を抜けた先に小さい湖があるんだってさ。見晴らしが良くて、夕方になればすげえ綺麗な夕焼けが見えるらしいぜ。あとで見に行かねえか?」
「へえ、それは見てみたいね」
 リンハルトは相槌を打ちながらカスパルの後を追う。
 カスパルはいろいろなものに興味を示した。食べ物や風景、人の営みや生活。本を読むだけでは得られないさまざまな発見を、カスパルはいくつも教えてくれる。
 それはリンハルトに新鮮な驚きを与え、同時に自分の世界が広がっていくかのような楽しさを感じさせてくれた。
「カスパルといると飽きないね」
「そうか?」
「うん、ずっと見ていたくなる」
「がっはっは! なら、好きなだけ見てろよ!」
 リンハルトの悪戯心を込めた言葉も、カスパルは快活に笑ってかわしてしまう。
 カスパルのそういうところは昔から変わらないな――などと少し残念に思ながらも、変わらないことを喜ばしく感じているのも確かだった。

 宿屋に到着して部屋へと向かう。小さな宿の狭い一室に男二人が入り込むとさすがに窮屈だった。とはいえ、野宿に比べればかなり快適な空間と言えるだろう。
「寝台がひとつしかないけど、どうしようか? 僕は一緒に寝るのでも構わないけど……ああ、でも寝てるカスパルに蹴飛ばされたら嫌だなあ」
 リンハルトは狭い室内を見回してからカスパルへと視線を向ける。カスパルは心外だとばかりに唇を尖らせた。
「別に蹴飛ばしたりしねえよ。まあ、仕方ねえよな。せっかく寝台があるのに片方だけ床ってのも公平じゃねえし。一緒にくっついて寝るしかねえか」
「うん、それがいいね」
 カスパルの返事にリンハルトも頷き、荷物を下ろして休息の準備に入る。
 夕方には二人で湖に赴き、美しい景色を堪能した。夜には宿屋で温かい食事をたいらげ、湯も貰って旅の汚れを洗い流した。
「あー、腹いっぱいだ。リンハルトは相変わらず食が細いよな」
「カスパルほど食べるのは無理だよ」
 食事のあと、二人は部屋へ戻り寝台に寝転がった。
 古びた寝台は少し硬かったが、それでも野宿よりは格段に寝心地が良い。二人で入るとやはりかなり狭く感じたものの、身を寄せ合えばなんとかなった。
「なんだか子供の頃を思い出すね」
「そうだな。昔はよく一緒の寝台で寝てたっけか」
 カスパルは懐かしそうに目を細める。
 お互いの邸に遊びに行ったときはよく寝台を共にしたものだ。雷が怖くて眠れないとぐずるカスパルをなだめながら、彼が眠りにつくまで側にいてやった記憶がある。
 なぜ自分の兄の部屋に行かないのか――と当時のリンハルトは疑問に思っていたのだが、兄よりも自分を頼ってくれるのだと思うと嬉しかったのも事実だった。カスパルと兄の仲があまり良好でないことを知ったのは、もう少し成長してからのことだ。
「お前、あんときは蹴飛ばされそうで嫌とか言わなかったじゃねえか」
「え? うーん、ほら、あの頃はカスパルも小さかったし、蹴飛ばされたところで大したことないかなって」
 カスパルに指摘されたリンハルトは適当な言い訳で取り繕った。
 リンハルトにはひとつ、黙っていたことがある。
 雷が鳴るような夜は月が出ていないため、おばけが出そうという理由からリンハルトも苦手としていた。だから、カスパルのほうから寝台に潜り込んできてくれるのはありがたかったのだ。
「あの頃は可愛かったのになあ」
「なんだよ、いまのオレじゃ不満か?」
「なに、いまも可愛いよって言ってほしいの?」
「そういうんじゃねえけど」
 軽口を叩き合いながら二人は目を閉じる。隣から伝わってくる体温と鼓動は心地よく、眠気はすぐに訪れた。
 互いの呼吸音を子守唄に、眠りに落ちかけたそのとき――宿屋の家屋が揺れるほどの雷鳴が轟いた。
「うわっ!?」
 カスパルは悲鳴を上げて飛び起き、リンハルトも驚いて目を開ける。
「すごい雷だね」
 不安げに窓の外を覗くカスパルを尻目に、リンハルトはのんびりとした口調で返す。
「夏ってわけでもねえのに」
「雪颪ってやつかもね。山頂のほうにはもう雪が積もってたし、上空に寒気が流れ込んでるんだ。たぶん、明日は雪が降るよ」
 リンハルトはのそりと寝台から立ち上がり、窓を開けて外の様子を確認した。窓の外では大粒の雨が地面を激しく叩いており、ときおり稲光も走っている。きっと、この雨はそのうち雪へと変わるのだろう。
「これはしばらく続くかもね。野宿にならなくて本当によかった」
「そうだな……」
 カスパルは窓を閉めて大仰なため息を漏らす。そして、再び寝台に転がると頭まで毛布を被ってしまった。
「そんなに雷、怖いの?」
「しょ、しょうがねえだろ」
 リンハルトの問いかけに、カスパルは毛布の中から顔の半分だけを覗かせた。その声はわずかに上ずっており、いつもの快活さや覇気がない。
 リンハルトは小さく苦笑して寝台へと戻り、片手をカスパルに差し出す。
「ほら」
「なんだよ」
「手、握っててあげるよ」
 抵抗があるのか、カスパルはすぐには反応を示さなかった。
 リンハルトは気にせずに手を伸ばしたままじっと待ち続ける。
 やがて根負けしたのか諦めたのか、カスパルは少し恥ずかしそうに手を差し出しながら呟いた。
「頼むわ」
「うん」
 リンハルトの手が握られると同時に再び稲光が走る。そして轟音。
「ひゃっ!」
 カスパルは悲鳴を上げてリンハルトの手を握り締める。
 リンハルトはその手を握り返しながら、そっと身体をカスパルのほうへと寄せた。
 少し高めの体温と、分厚い掌の感触を確かめるように指を絡ませる。それは記憶の中にある小さな少年の手ではなく、硬い胼胝に覆われた青年の手だった。
「雷がおさまるまでこうしてようか」
「おう……」
 カスパルは照れくさそうに頷く。その表情は子供の頃と変わらない。リンハルトの記憶の中にあるものと、なにひとつ変わりはしなかった。
 あのときカスパルの身体の成長を寂しく感じたのは、きっと成長を離別の兆候だと思い込んでいたからなのだろう。だが、カスパルはいまも自分の側にいる。
 あの頃の自分が胸に抱いた感情を、いまの自分はどんな言葉に置き換えることができるのだろうか?
 そんなことを考えながらリンハルトはゆっくりと目を閉じ、もう一度眠りに落ちていった。

「リンハルト、起きろ」
 朝の光が瞼の裏を白く焼く。
 カスパルの声が頭の中に響き、リンハルトはゆっくりと目を開けた。
「ん……おはよう、カスパル」
 リンハルトは欠伸をしながら身を起こす。
 カスパルは寝台から離れて窓の外を眺めていたようだ。窓からは白い光が差し込み、室内を明るく照らしている。もうすっかり日が登る時間らしい。
「ほら、見てみろよ。すげえ綺麗だぜ?」
 カスパルは興奮気味に窓の外を指差した。
 促されるままリンハルトも窓の外を覗く。
 そこには一面の銀世界が広がっていた。朝日を受けてきらきらと輝く雪景色が、幻想的な美しさを醸し出している。
「本当だ……」
「だろ? 雷っておっかねえけどよ、こんな綺麗なものを連れてきてくれることもあるんだな」
 カスパルは気持ちよさそうに伸びをしてからそそくさと衣服を着替え始めた。
「もう出立するの?」
 外套を羽織って深靴を履くカスパルを眺めながら、リンハルトはまだ重たい瞼を擦る。
「違えよ、朝一番じゃねえと雪が踏み潰されてぐちゃぐちゃになっちまうだろ。その前に近くで見てこようぜ」
 カスパルは鞄を担ぎながら意気揚々と答えた。
 なるほど、とリンハルトは小さく笑う。降雪にはしゃぐカスパルはまるで犬のようで、いつまでも変わらないその無邪気さが微笑ましかった。
「お前も早く準備しろよな」
「わかったよ」
 カスパルに急かされ、リンハルトも寝台から下りて身支度を始める。
 窓の外の銀世界は朝陽を浴びて輝きを増していた。この美しい景色を満喫しないまま雪が泥まみれになってしまうのは、確かにもったいないような気がする。
 カスパルが先に宿から出て、リンハルトも外套と深靴を身につけてからその後に続いた。宿の外も一面の銀世界で、凍り付いた雪が光を反射して煌めいている。
「うわ……こりゃあすげえな」
 カスパルは目を丸くして感嘆の声を漏らした。靴底で雪の感触を確かめるように一歩ずつ踏み締めていくと、その度にさくさくと小気味いい音が響く。
「ほら、リンハルトも行こうぜ」
 カスパルが手袋をはめた手をリンハルトへと差し出す。その手を取りながら、リンハルトはふといつかのやりとりを思い出した。
『僕と結婚しない?』
 カスパルと離れたくないあまり口走ったあの言葉。きっと、カスパルはもう覚えてはいないだろう。
 あれは子供の戯言だ。けれど、その思い出がリンハルトの心をこのうえなく甘く疼かせることもあった。
 それは恋だったのかもしれないし、別の感情だったのかもしれない。ただ、それは未だに胸の奥に潜んでいて、ときおりリンハルトを内側からくすぐってくる。
「リンハルト?」
 リンハルトの視線に気付いたカスパルがきょとんとした表情を浮かべた。
「なんでもないよ」
「なんだよ、気になるだろ」
 カスパルは不満そうに目を眇めてリンハルトをじろじろと眺める。
 リンハルトはカスパルの問いに答えないまま、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
 カスパルは少し驚いたような顔をしたが、すぐに破顔して力強く握り返してくる。
「まあ、いいか。行こうぜ、リンハルト」
「うん」
 リンハルトは手を引かれるままに歩き出す。
 変わらないこの温もりが、未だ己の手の中にある。それだけでリンハルトの胸は温かいもので満たされ、世界を鮮やかに彩ってくれた。

 ゆりかご


 炎の纏う熱気が重くのしかかる戦場で、リンハルトは白き竜の咆哮を耳にした。
 それを皮切りに戦場からは徐々に大隊の鬨や小競り合いの残響が消えていき、兵士たちの口から「戦争が終わった」という報せが飛び交うようになったのである。
 凱歌を挙げる者、項垂れる者――各軍が混在する戦場にはさまざまな感情が渦巻いていたが、なによりも見受けられたのは安堵の表情だった。
 ――終わったのか。
 それを認識した途端、リンハルトは猛烈な睡魔に見舞われてその場へと昏倒した。
 薄らいでいく意識の中、副官が慌てた様子で駆け寄ってくるのを感じたが、リンハルトの瞼は重く、もはや開くことも叶わなかった。

 目覚めた時、リンハルトは寝台で寝かされていた。戦争が終結したとの報告を受けた後、意識を失ったまま駐屯地まで運び出されたらしい。
 騎兵の返り血を浴びていた肌は清められ、砂塵にまみれた法衣も清潔な寝具に取り替えられていた。リンハルトが血塗れの寝台で目を覚ますことがなかったのは、おそらくは医務室の主の温情だろう。
 ほかの将兵たちは、敗残兵の捕縛や被害状況の確認などに駆り出されて寝る暇もないはずだ。リンハルトがこうして寝かされているのは特待と言って差し支えないわけだが――憂慮せずとも、あの優秀な父親が彼の仕事を肩代わりしてくれていることだろう。
 終戦まで付き合ったのだから、もう眠っても許されるはず。
 そんな言い訳をしながらリンハルトが再び瞼を下ろそうとしたとき、天幕の入口が開いて見慣れた甲冑姿の青年が姿を現した。
「よお、リンハルト! ぶっ倒れたって聞いたけどなんともなさそうだな」
 青年――カスパルは軍靴の踵で地面を蹴りながら、リンハルトの寝かされている寝台へと歩み寄ってくる。
「お前、一週間も眠りこけてたんだぜ? 魔法で眠らされてるんじゃないかってみんな心配してたぞ。まあ、マヌエラ先生が大丈夫って言うから大丈夫なんだろうけどよ」
「そう。僕、そんなに寝てたんだ」
 せいぜい半日ほど眠っていた程度の認識だったリンハルトは、幼馴染の口振りから自分がかなりの時間眠りこけていたことをようやく認識した。
「まあ、やるべきことはお前が寝てる間にほとんど終わっちまったよ。そろそろこの駐屯地も引き払って、本隊ごと帝都に戻るみたいだ」
 カスパルは寝台の横に置かれた椅子に腰をかけながらリンハルトの顔を覗き込む。
 激戦が続いたせいだろうか、数週間ぶりに見た幼なじみの顔はいくぶんか痩けている気がした。
 前線部隊を率いるカスパルが受ける肉体的、精神的な負担は後方支援部隊であるリンハルトの比ではないはずだが――それでも、彼はいつだってこうしてリンハルトの心配をするのだ。
「体はなんともないのか?」
「うん、怪我もないし、たぶんどこも悪くないと思うよ。魔力を使うと内側から消耗するから、回復に時間がかかったんだろうね」
「そっか。なら良かったぜ」
 カスパルは安堵の息をつくと、リンハルトの寝かされた寝台に上体を預ける。そして、脱力したようにそのまま突っ伏してしまった。
「カスパル?」
「……お前が倒れたまま目覚めないって聞いたときは本当に焦ったんだぜ? このまま目を覚まさなかったらどうしようって」
「うん……心配かけたね」
 カスパルの重みを胸に感じながら、リンハルトはその温もりがまだ存在することに安堵する。
 屋内にいるときでさえ、カスパルの周りはいつだって明るく輝いているように見えた。彼のそばにいると不思議と暖かさを感じられて、それは心地よい眠気となってリンハルトを包み込んだ。二人が出会ってからずっと、カスパルはいつもそうだった。
「好きだよ」
 ふと口をついて出た言葉に驚いたのはリンハルト自身だった。
 それはずっと前から自分の中に在り続けていた言葉だったのかもしれない。だが、それを言葉にしたのは初めてだった。何かがきっかけで箍が外れたように、その言葉が喉をついて溢れてきたのだ。
「……なんだよ急に? そんな改まって」
 カスパルも突然のリンハルトの言葉に驚いているのか、突っ伏していた顔をがばりと上げる。
「……なんだろうね。なんか今、急に言いたくなっちゃって」
「なんだよそれ」
 カスパルはおかしそうに笑いを噛み殺しながら再び寝具に上体を預けた。
「なあ、リンハルト」
「うん?」
「……オレも、お前のこと好きだぜ」
 照れているのか、カスパルは顔を伏せたままぶっきらぼうに告げる。しかし、髪の隙間から覗く耳の赤さが彼の心情を雄弁に物語っていた。
 その反応が愛おしくて堪らなくなり、リンハルトは上体を起こしながらカスパルの頬に手を添える。そのまま優しく顔を自分に向けさせれば、カスパルはリンハルトの意図を察して目を伏せた。
 軽く触れただけの口付けは甘美な陶酔を齎し、二人はしばらく言葉を失ったまま唇を重ね合わせ続ける。
 やがて自然の流れのように体を絡ませ合いながら寝台へと縺れ込んだ二人は、戦場の残滓が漂う天幕の中で深く互いを求め合った。

 幼馴染の熱を唇に残したまま、リンハルトは瞼を持ち上げた。
 情事の跡を色濃く残した寝台の上で、無防備に眠る幼馴染の寝顔を目に焼き付けながらその体に残った傷跡を指先でなぞっていく。
 この傷跡を見るたびに、リンハルトの胸には疼痛が走った。カスパルが血を流すことへの恐怖と、その傷の数だけ命が助かったことへの安堵。それらの重さを比較したとき、リンハルトの中で勝るのはいつだって恐怖のほうだった。
「カスパル……僕はね」
 カスパルが人より頑丈だからといって、人より多く傷つく必要はないのだ。人の命が等しく尊いように、人が傷つくことは等しく酷いことなのだから。
 誰かを庇って傷つく彼を見るたびに、リンハルトはそう思わずにはいられない。だが、それを言葉にして伝えればカスパルを困らせるだけだろう。
 そして、そんな一面も含めて自分は彼に惹かれているのだと思うと、彼を否定しているようで矛盾も感じてしまう。
 だから、リンハルトはただその体に残る傷跡を慈しむように撫でることしかできない。
「……愛してるよ」
 もう一度そう囁いてから、リンハルトはカスパルの体にそっと毛布をかけ直した。
「おやすみ」
 寝台に横たわって瞼を閉じる直前、リンハルトはカスパルの唇に自分のそれを重ね合わせる。するとカスパルはむずがるように小さく呻き、何かを求めてリンハルトの体に腕を巻き付けてきた。
 その体温が、あまりにも愛しかったせいだろうか。
 リンハルトは人生で初めて、まだ眠りたくないと思った。

 それから何節かの時が過ぎ、戦後の処理に奔走していた将兵達もようやく各々の領地へ帰還した。帝都アンヴァルからも戦の物々しさは消え、士官学校も再開されフォドラには穏やかな日常が戻ってきていた。
 戦争は終わったのだ。終戦を祝う多くの者と同じように、リンハルトも久方ぶりに腰を落ち着けて研究に専念できる。
 そう、思っていたのだが――現実は甘くはなかった。
「はあ……また面倒ごとですか」
 リンハルトは辟易した態度を隠さず溜息をついてから目の前に立つ父親を見上げた。
 父親――ヴァルデマーはそんなリンハルトの反応など意に介さずといった様子で淡々と話を続ける。
「王国軍の残党兵が帝国領内で略奪行為を行っているらしい。その対処のために砦へと赴き、残党兵を討伐せよと陛下からのご命令だ」
「嫌です。僕はもう軍役から退いた身ですからね。そもそも、荒事を任せるならもっと適切な人物がいると思いますけど」
「残党兵の中には魔術の心得のある者たちが混ざっている。こちらも魔術に長けた者を向かわせる必要があるだろう。魔術に造詣が深く自由に動ける者という意味では君が適役だと思うが」
「それは、そうかもしれませんけど……僕も暇じゃないんですよね」
 リンハルトはなおも不満を露にする。
 しかし、ヴァルデマーはそんな息子の様子を気に留めることもなく話を続けた。
「これは皇帝陛下の勅命だ。従わないという選択肢はない」
「はあ……わかりましたよ。行けばいいんでしょう?」
 結局、リンハルトが折れる形で話は決着した。
 ここで食い下がったところで結果は変わらないだろう。それならば諦めて承諾したほうが時間と労力の節約になる。だが、やはり面倒ごとは面倒だ。
 そんなリンハルトの心中を見透かしたように、ヴァルデマーは言葉を付け足した。
「討伐にはベルグリーズ兵団も同行することになっている。一度ベルグリーズ邸まで赴いて指揮官と話をしておいてもいいかもしれないな」
「……ベルグリーズ兵団が?」
 リンハルトはその言葉の意味を思索する。
 予備士官同然のリンハルトに任せるような任務が、軍務卿直々に出向くほどの重役とも思えない。となれば、同行するベルグリーズ兵団を率いている将はカスパルだろう。
「……わかりました。それでは失礼します」
 リンハルトは一礼をして父親の執務室を後にした。
 面倒だとは思うものの、皇帝の命令となれば仕方がない。
 それに――カスパルにも会えるのだ。
 アンヴァルに戻ってからというもの、二人は一度も顔を合わせていなかった。というのも、カスパルが残党兵や野盗の討伐に忙殺されているせいで私的な時間が取れなかったせいだ。
 カスパルはいつか家を出て一人で身を立てると言っていたが、現状、帝国軍はカスパルが率いるベルグリーズ兵団の戦力に頼っている状態だ。
 カスパルにはこのまま帝都に残留してもらって、皇帝の手足として動いて欲しいというのがエーデルガルトの本意ではないかと思うが――そこはリンハルトが介入すべき領分ではないだろう。 
 それよりもリンハルトには、カスパルに会って確かめたいことがあった。
 カスパルの体温を思い出すだけで体が火照るほどには、あの日の出来事はリンハルトの心に深く刻み込まれている。高揚した彼の目の周りには穏やかな朱が差し、それが彼の虹彩の青を更に美しく輝かせていた。
 だが、こうして日々が過ぎるうちに、果たしてあれは現実だったのか、昏睡中の自分が見た幻だったのではないかと、懐疑の念が生まれるようになっていたのだ。
 だから、この機会に確かめたいと思ったのだ。カスパルの真意を。

 リンハルトが馬車を走らせてベルグリーズ邸を訪れたのは翌日の話だ。
 使用人からすでに話が通っていたのだろう、カスパルは自ら門扉まで出迎えてくれた。リンハルトは恭しく頭を下げる御者に礼を言いながら、門扉をくぐって敷地内へと足を踏み入れる。
「久しぶりだね」
「おう! 元気そうだな!」
「うん、まあ……それなりにね」
 屈託なく笑うカスパルにリンハルトは曖昧な笑みを返す。
「最近、忙しそうだね」
「ああ、まあな。エーデルガルトにこき使われてるよ」
 カスパルは変わらない様子だった。
 昔と変わらない闊達な笑顔を向けられ、リンハルトは安堵すると同時に一抹の不安を抱く。
 本当にあれは現実だったのだろうか? それとも夢だったのか? その答えを確かめなければ――リンハルトは逸る気持ちを抑えながら、カスパルに促されるままに邸内へと進む。
 カスパルの私室へと通されたリンハルトは、久しぶりのその空間に懐かしさを感じて目を細めた。
 子供の頃から入り浸っていたその部屋は、以前よりも片付いているように感じられる。官舎から持ち帰ったのであろう手紙も棚に収められ、いつも散らかっていた文机の上も綺麗に整えられていた。
「ずいぶん綺麗にしてるんだね。忙しくてあまりこの部屋は使ってないのかな」
「あー……まあな」
 リンハルトが部屋をぐるりと見回しながら訊ねると、カスパルは歯切れの悪い返答をする。
 その反応を訝しんだリンハルトが首を傾げたところで、カスパルはばつが悪そうに後頭部をかいた。
「今回の件が片付いたら家を出ようかと思っててよ。それで、少しずつ片付けてたんだ」
「そう……まあ、前々からそう言ってたもんね」
 リンハルトは内心で複雑な思いを抱きながら相槌を打つ。
 カスパルの意思は尊重すべきだろう。しかし、あの出来事をうやむやにされたまま帝都を離れられるのは逃げられるようで釈然としなかった。
「それでよ、その……リンハルトも、一緒に来ねえか?」
「……え?」
 唐突な提案にいったん思考が止まり、リンハルトはカスパルの顔を見やる。
「オレもそうだし、お前だって帝都にいたらゆっくりできねえだろ? だから、二人で旅でもって思ってよ」
 カスパルは一度気恥ずかしそうに視線を泳がせたが、すぐに向き直ってリンハルトの顔を見据えてきた。
「もちろん、お前の負担になるんだったら無理強いはしねえけど」
「ううん、いいよ。行こう」
 リンハルトは即答した。そう答えることに迷いはなかった。
「……え、いいのか? いや、旅ってそんな気楽なもんじゃねえからな? 野盗や魔獣だっているし、危険なんだぞ? 研究だって満足にはできねえだろうし……」
「そんなことはわかってるよ」
 リンハルトの答えが予想外だったのか、カスパルは狼狽した様子で訊ね返す。
 リンハルトはカスパルに歩み寄ってその体を抱きすくめた。カスパルは突然のことに身を硬くしたが、やがておずおずとリンハルトの背中に手を回してくる。
「君を、愛してるよ。君が行くところなら僕はどこへでも僕も行くし、何があってもそばにいるよ」
 リンハルトはことさら明瞭にその言葉を口にした。
 カスパルの体温を感じながら、その感触を全身で確かめながら、リンハルトはようやくあの日の出来事が夢でないということを実感できていた。
 いまここに確かに在る体温が証明してくれている。カスパルのぶっきらぼうな告白も、体を重ねたときの切実な声も、そのすべてが現実だったということを。
「その、オレも……愛してるよ」
 カスパルは感極まったようにぶるりと体を震わせ、それからリンハルトの背中をぎゅっと抱き返した。
 腕の中の体温を抱きすくめたまま、リンハルトはそっとカスパルの唇に自分のそれを重ねる。カスパルは一瞬だけ体を硬直させたが、やがて力を抜いてリンハルトの口付けを受け入れた。
 啄むような口付けを何度も交わして互いの体温を確かめ合ったあと、リンハルトとカスパルはゆっくりと顔を離す。そしてもう一度、強く抱き締め合った。
「一緒に行こう、リンハルト。ずっと……ずっと一緒にいよう」
「……うん、約束だよ」
 互いの存在を確かめるように抱き締め合いながら、二人はもう一度唇を重ね合わせた。

 ***

 カスパルがエーデルガルトから宮城に招かれ、軍務卿の後継に関する打診を受けたのはそれより数日前のことだった。
 カスパルは既に帝国の将として一廉の功績を挙げている。加えて、現皇帝と現軍務卿の推薦があっての就任とあらば反対する者はいないだろう。
「オレが……軍務卿に……」
 カスパルは天鵞絨の絨毯を眺めながら、エーデルガルトの言葉を反芻するようにつぶやく。
 父親の跡を継いで軍務卿に――それはカスパルにとって望ましい未来であったはずだし、そうでありながら望むべくもない未来のはずだった。その未来がいま、自分の返事ひとつで掴める場所にまで来ている。
 そうであるはずなのに、カスパルはそれを快諾できないでいた。
『好きだよ』
『愛してるよ』
 カスパルの脳裏には、終戦の折に懇篤の仲となった幼なじみの姿がこびりついて離れなかった。
 それは、触れられることがなければ自覚することもなかった感情だったのかもしれない。カスパルの中に眠っていたそれを目覚めさせたのは、間違いなく彼が口にしたその言葉だった。
 あれから、リンハルトとはほとんど顔を合わせていない。帝都での凱旋や催事で同じ場所に居合わせることこそあるものの、私的な交流は皆無と言えた。
 それにすらリンハルトは顔を出さないことが多く、カスパルの多忙さも相俟って二人は同じく帝都に居を構えながらもどんどん疎遠になっていたのだ。
 この上で軍務卿となったのであればどうなるのだろうとカスパルは考える。カスパルが幼い頃から転戦を繰り返し、数節単位で家を留守にすることもあった父親を思えばそれは自明の理であった。
「迷っているのか、カスパル?」
 ふいに声を掛けられ、カスパルは弾かれたように顔を上げた。目の前には父親――レオポルドの怪訝そうな顔があり、そこで初めてカスパルは自分がその場に立ち尽くしていたことに気がついた。
「あ、いや……」
 カスパルは言葉を濁す。
 父親の手前、リンハルトとの交友関係を杞憂して軍務卿の継承を迷っているなどとは言えなかった。
 しかし、そんな息子の様子を見て何を思ったのか、レオポルドはふっと表情を和らげる。
「まあ、無理はなかろう」
「……え?」
「軍務卿となれば、いままで以上に制約が多くなるだろうからな。どの道を選ぶかはお前の自由だ。自分の道を見つけたのであれば、その道を進むのも悪くはないだろう」
「親父……」
 レオポルドはそれだけ言うと、カスパルの肩に手を置いて立ち去っていった。
 遠ざかる父親の背を見つめながら、カスパルは改めて自分の未来について考える。
 ――リンハルトが、自分のそばにいてくれるのなら。
 彼が自分の将来を考えたとき、確信を持ってそうと言えることはそれだけだった。
 翌日、カスパルはエーデルガルトに辞退の旨を告げると、自室の荷物の片付けを始めたのだった。

 ***

 帝都アンヴァルから遠く離れた山間で、リンハルトとカスパルは薪に火を焚べて野営を行っていた。
 鳥や獣を狩りながら食糧を確保し、時には山菜や薬草を採って飢えをしのぎ、夜になれば身を寄せ合って暖を取り合う。
 そうしていくつもの街や村を通り過ぎ、国を渡り歩くうちに、いつしか数年の時が流れていた。
「はあ……寒いねえ」
 暖を取るために火に手をかざしながら、リンハルトは傍らで毛布にくるまるカスパルに声をかける。標高の高いこの場所ではまだ雪が残っており、春を迎えようとする大地を白く染め上げていた。
 揺らめく炎を見ていると、リンハルトはあの戦争を思い出す。
 戦争が終わってから、リンハルトは当時の凄惨な記憶と共に武器や防具をへヴリング邸の倉庫に押し込めた。それから倉庫に足を踏み入れたことはなく、戦争の話題も故意に避けている。そして、カスパルがその記憶をあえて掘り起こすこともなかった。
「ああ、でも……こうしてるとあったけえだろ?」
「うん。そうだね。君は昔から暖かいよねえ」
 リンハルトはカスパルの脇に丸まってその胸に頭を預ける。カスパルはそんなリンハルトを腕の中に包み込み、頬を頭の上に乗せて体温を分け与えていた。
 リンハルトはカスパルの胸に頬ずりしながらその温もりを享受する。この体温が、ずっと欲しかったのだ。そしてそれはいま確かにここにあって、リンハルトの心を温めている。
「……なあ、リンハルト」
 ふいにカスパルに名を呼ばれ、リンハルトは顔を上げた。
「なに?」
「お前さ……本当に良かったのか?  帝都を出て……。紋章の研究とか、したかったんじゃねえのか」
 カスパルは不安げに問いかける。
 リンハルトをよく知る彼だからこそ、リンハルトが安穏と過ごせる地を離れるという選択をしたことをいまだ憂慮しているのだろう。
「紋章の研究ねえ……もちろん、興味はあるよ? でもさ……」
 リンハルトは少し思案したあと、まるでいたずらっ子のように目を細めて笑った。
 確かに、帝都には研究対象として興味深い相手が何人もいるし、紋章に関する書物も豊富に揃っている。それらを自分との約束で反故させたことに、カスパルは後ろめたさを覚えているのかもしれない。
「こうやって君と二人きりで過ごす時間も、僕は気に入ってるんだよ。たぶん、君が思ってる以上にね」
「……そうか」
 カスパルは気恥ずかしそうに頰をかくと、リンハルトの肩を抱き寄せて体を密着させる。
 二人の体温が重なり、その境界を曖昧にしていく。まるで触れた箇所から溶け合うような感覚に、リンハルトはまどろみながら身を委ねた。
「でもさ……いつかは、どこかに落ち着く必要があるよな。オレもお前も歳をとるわけだし」
「そうだね」
 リンハルトは目を伏せながら首肯する。
 ずっと一緒にいるとは言ったものの、別れのときがいつか必ず訪れることももちろん理解していた。
 だからこそリンハルトは限りある時間を愛する人と共有したかったし、カスパルもまた同じ思いを抱いてくれていたことが嬉しかったのだ。
「だからよ、二人で暮らせる場所を見つけておかねえか?」
「それって……」
 カスパルの提案に、リンハルトは目を丸くして顔を上げた。
「歳とってもさ、ずっと一緒にいようぜ。お前が嫌じゃなければだけど」
「嫌なわけないよ」
 リンハルトはいつかのように即答する。
 カスパルと過ごす日々が、これからもずっと続いていく――それはリンハルトにとって願ってもないことだった。そして、それがカスパルの口から聞けたことが何よりも嬉しかった。
「前に言ったよね。僕は何があっても君のそばにいるよ」
「……ああ。そうだよな」
 リンハルトは再びカスパルの胸に頰をすり寄せ、心地よい睡魔に身を委ねる。その体を、カスパルの腕が優しく抱き締めた。
 もう、眠るのが嫌だとは思わなかった。どれだけの朝を迎えても、この温もりは変わらずそばにあるのだから。
 リンハルトはカスパルの腕の中で幸せを嚙みしめながら、静かに眠りへと落ちていった。

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