ある傷痍軍人と男の話
なにが起こったのか、よく覚えていない。聞いたことのない轟音が空から聞こえてきて、見上げると巨大な杭のようなものがメリセウス要塞に向かって飛んでくるところだった。
なんだあれ、と呆然としているあいだにそれは落下してきて――そこからもう記憶が曖昧だった。
気がつくと、オレは寝台の上に寝かされていた。
あの杭のようなものが放った閃光で目が焼かれたらしく、自分がどこにいるのかもわからなかった。瞼を開けると視界がぼんやりと明るくなって、そのおかげで自分の目が開いているのか閉じているのか、ここが明るいのか暗いのかくらいの判断はできた。
仲間に救助されたのか、敵に捕縛されたのか――いまの状況から考えて、前者だろうとオレは判断した。
たぶん、ここは牢屋ではない。牢屋だったなら、いまオレが寝かされている場所がこんなに柔らかくて暖かいはずはないだろう。となると、帝国軍の野戦病院だろうか。
周囲に誰かがいるのであれば、声を出せばオレが起きたことに気づいてくれるかもしれない。そう考えて声を出そうと試みたものの、なぜか声が出なかった。
そうなるともう、体を動かすことによって察知してもらうしかない。オレは寝台に手をついて、上体を起こそうとして――そして、まったく体が動かないことに気がついた。
なぜかわからなかった。理由を確かめようにも、目が見えねえから視認できないし、声も出ねえから誰かに訊ねることもできない。
オレは錯乱しちまって、遮二無二に体を暴れさせた。そうしたらふっと体が浮いた感覚がして、次の瞬間には全身に激痛が走った。
オレは自分が寝台から落ちたことを悟った。高さはそこまでではなさそうだったが、オレはおそらく大怪我をしている。そのせいで、落下したときに激痛が走ったのだろう。
あまりの激痛にオレは情けなく床を転げ回った。そのおかげで誰かがオレに気づいてくれたらしく、背中に手を回されて持ち上げられる感覚があった。
悲鳴は出していないはずなのになんで気づいたのだろう、とオレは疑問に思った。だけど、よく考えたらこの手の主の足音もオレは聞こえていなかった。使えなくなっていたのは、喉ではなく耳だったのだとオレは理解した。
自分の体温が残っている敷き布に転がされて、さっきまで寝ていた寝台に戻されたのだとわかった。怪我の具合を確認しているのか、手の主はあやすようにオレの体をあちこち撫でている。
オレの髪や頬を撫でる手は硬くて大きくて、相手の姿は見えねえけど大人の男だとわかった。小指らしき部分に感じる不自然な硬さは、何かを握った際にできた胼胝なのだろう。
しばらくすると体を起こされて、口になにか硬いものがあてがわれた。なんだ、と思っている間に液体が口に流れ込んできて、驚いたオレはそれを飲み込めずに噎せてしまった。
それでまた体に激痛が走り、咳き込むたびに涙が出てきた。男はそんなオレの背中を優しく擦って、柔らかい布のような物で唇の端から零れた液体を拭ってくれた。
落ち着いたころにもう一度同じことをされた。男はむりやり飲ませようとはしなかったから、毒物ではないだろうと判断してオレはその液体を嚥下した。それはただの水だった。
ひと口水を飲んだとき、オレは自分の喉がひどく乾いていたことに気がついた。オレは夢中になって男から与えられる水を飲んで、水が注がれなくなっても口を動かし続けた。
もう水はないのだと諭すように髪を撫でられて、ようやくオレは我に返った。そして恥ずかしくなった。まるで赤ん坊みたいじゃねえかよ、と自分に嫌気が差した。
オレが恥じ入っているうちに、今度はどろりとしたものを口元に差し出された。たぶん、匙でなにかを掬ってオレに食わせようとしているのだろう。
首を傾げながらそれを舌先で舐めてみると、甘い味と水っぽい食感がした。果物を擦り下ろしたものだろう。甘いものはあまり好きじゃねえけど、腹が減っていたからかこれは美味いと感じた。
それから何度も同じものを口に運ばれて、オレはそのたびにぜんぶ平らげた。そうしている内にだんだん眠くなってきて、そのまま男の腕の中で眠りに落ちていった。
***
光の杭による大規模攻撃によって、メリセウス要塞は閃光と轟音に包まれた。建物は爆発によって倒壊し、町中に瓦礫が散乱して粉塵が舞っていた。
それは偶然だった。被害状況を確認するために廃墟と化したメリセウス要塞を探索していたとき、僕はカスパルの姿を見つけたんだ。
カスパルは倒壊した建物の下敷きになっていた。建物の骨組みがカスパルの両脚を貫通していて、そのときすでに彼の意識はなかった。
僕一人では瓦礫をどかしてカスパルを助けるなんて不可能だ。けど、助けを呼びに行ったのではその間に周囲の建物が更に倒壊してしまうかもしれない。
僕はほんの少しだけ迷って、それからカスパルの両脚を切って瓦礫の下から助け出した。その場に鋸なんてあるはずもなかったから、カスパルが持っていた斧を使った。斧の重量をもってしても一度で骨を切断することはできなくて、僕は謝りながら何度もカスパルの脚に刃を立てた。
えずきながらも切り口を処置して、できるだけ清潔な布で切断面を保護して――カスパルを担いでその場から少し離れたとき、カスパルを押し潰していた建物が自重で崩れ落ちた。
僕はカスパルを野戦病院まで運んで、備え付けられていた寝台に横たえた。カスパルの姿を見た仲間たちは驚いた様子だったけど、彼を見捨てろとまでは言わなかった。
カスパルの心臓は弱っていて、体の末端まで血液を送り出せる状態ではなかった。
左腕は戦闘で負傷したようだった。敵の攻撃を避けきれなくて、咄嗟に腕を盾にしたようだ。幸いなことに裂傷は骨で止まっていたけど、刃に毒が塗布されていたのか、カスパルの腕は糜爛していた。
左腕はもう駄目だ。右腕もいずれ壊死するだろう。
そう判断した僕はカスパルの腕も切り落とした。右腕はまだ壊死していなかったけど時間の問題だし、切り落としてしまったほうがほかの部位に血液を送ることができるため、カスパルの生存率が上がると考えたからだ。
両手足を切り落としてまで生き延びるなんて、カスパルは望まないかもしれない。そうも思ったけど、それを決めるのはカスパル自身だ。いま僕にできることは、カスパルの命を繋げることだけだった。
カスパルはなかなか目を覚まさなかった。
僕は水を含んだ布をカスパルの唇にあてがって水分を摂らせた。血流が滞らないように、夜中でも定期的に起きてカスパルに寝返りを打たせた。日に何度もカスパルの胸に耳を当てて、まだ心臓が動いていることを確認した。
カスパルはみるみるうちに痩せていった。丸みのあった輪郭からはすっかり脂肪がなくなり、筋肉が落ちた胸はあばら骨が浮いていた。目の周囲もすっかり落ち窪んでいて、カスパルの凛々しい風貌は見る影もなかった。
五日ほど経った頃だろうか。ようやくカスパルが瞼を開いた。
そのとき僕は軍務のためにカスパルから離れていた。用事を終えて負傷者を寝かせている天幕に近づくと悲鳴のような声が聞こえてきて、慌てて中に入ると床でもがいているカスパルの姿があったんだ。体を動かそうとして寝台から落ちたのだろう。
嬉しかったのか、驚いていたのか――僕はよくわからない声を上げながらカスパルに駆け寄って、もがく彼の体を抱き起こした。カスパルは自分の状況がよくわかっていないらしく、警戒するようにきょろきょろと周囲を見回していた。
ここは戦場じゃない。君は怪我をしてずっと寝込んでいたんだ――そう言葉で伝えると、カスパルは「あぁ」「うぅ」と掠れた声で呻いた。寝たきりだったせいで喉が枯れているのだろう。
仲間たちはどうなっただとか、敵軍はどうしただとか――いろいろ聞きたいことがあるのかもしれないけど、僕はひとまずカスパルに水を飲ませた。
カスパルを抱き上げて寝台に戻し、片腕で体を支えながら口に器を近づける。カスパルはうまく水を嚥下できず、口の端からだらだらと零してしまったり、ときおり噎せたりしていた。
大丈夫? 飲みにくいよね、ごめんね――カスパルに水を与えながら時折そんなふうに声をかけてみたけど、返事らしい返事はなかった。まだ意識がぼんやりしているのかもしれない。
お腹が空いてるだろうと思って擦り下ろした果物を匙で掬って与えると、カスパルは子供のようにそれに吸い付いて食べ始めた。僕の手から食事をするカスパルは、親鳥から餌を貰う雛みたいで可愛かった。
用意した食事をほとんど食べ終えたカスパルは、そのまま僕の腕の中で眠ってしまった。体力が落ちているから、少し動いただけでも疲れてしまうのだろう。
僕はカスパルの体をそっと寝台に横たえて毛布をかけた。一人用の粗末な寝台は、いまのカスパルには大きすぎるようだった。
***
オレがふたたび目を覚ましたとき、すぐ横に誰かの気配を感じた。寝る前に世話をしてくれた男だろうと思って、オレは適当に声をあげて自分が起きたことを伝えた。
伝える必要があるのかはわからなかったけど……まあ、オレも目が見えなくて心細かったんだろう。男はすぐにオレに気づいたようで、オレの体を抱え起こしてくれた。
オレはまだ体にぜんぜん力が入らなくて、男の介助がないと起き上がることすらできなかった。寝返りくらいはなんとかできるようになったけど、まるで手足が鉛になったみたいに体が重かった。
――リンハルトなのか?
オレはうまく喋れないなりに男にそう訊ねた。
こんなふうにオレの世話をしてくれる男は誰なのだろうと考えて、真っ先に思い浮かんだのがリンハルトだった。親父は自分でそんなことはしないだろうし、兄貴はもっとありえない。
医者やほかの仲間という可能性もあったけど、男の手付きには親しい者に対する情のようなものが感じられた。だから、この男はきっとオレのことをよく知る相手なのだろうと思った。
男はしばらく反応をしなかった。もしかしたら何か話していたのかもしれねえけど、オレには聞こえなかった。反応がないのが不安になって声を上げると、男はオレの肩あたりを軽く指先で叩いてきた。
オレの目や耳が機能していないことに、相手も気がついたのかもしれない。オレ自身も、そのときまで「相手はオレの目や耳が機能していないことを把握していないかもしれない」という可能性を失念していたことに気がついた。
男の指は文字を書くように動いていたけど、肌の感触だけじゃなにを書いているのかまったくわからなかった。オレは首を振って「わからない」と伝えた。すると男は諦めたのか、オレの肩をそっと撫でてから手を離した。
それからまた寝台に横たえられて、なんだろうと思っていると服を脱がされる感覚があった。
たぶんオレは体中に包帯を巻かれていて、男はそれを交換しているのだと思う。包帯を剥ぎ取られて、傷口に薬らしきものを塗られて、新しい包帯を巻かれる――そんな感触が体にあった。
それを終えた男は、今度はオレの臍の下あたりを軽く指先で叩いてきた。腹の中に軽い振動が伝わって、そのせいで尿意が湧いてくる。そこでオレは、自分が目覚めてから一度も排泄をしていないことに気がついた。
腹を軽く叩いたのは排泄をさせるという合図だったのだろう。男はオレの下半身を持ち上げると、その下に盥かなにかを差し込んできた。ここに排泄をしろという意味なのだろうが、正直かなり恥ずかしい。
だけどここで催したまま我慢してあとで漏らすわけにもいかない。それに相手がリンハルトならいいかという気持ちもあって、オレは観念してその場で用を足した。
緊張のせいでうまく排泄ができないでいると、男は排泄を促すように腹をぽんぽんと叩いてきた。それがなかなか心地よくて、オレは途中から完全に身を任せてしまっていた。
排泄が終わると、尿で濡れた性器や尻を拭われる感覚があった。それがまた恥ずかしくて、オレはずっと顔を横に背けていた。いっそのこと相手が女だったなら、名前も顔も知らない看護師だろうと思えて楽だったのかもしれない。
男はオレに服を着せてから、もう一度肩を軽く叩いてきた。それで終わりのようだったので、オレは礼のつもりで小さく声を上げた。男はそれを最後に立ち去ったらしく、周囲からは人の気配が消えた。
オレの体はまだうまく動かない。寝返りを打つだけで息切れがする。全身に倦怠感があって、ずっと眠っていたはずなのにまだ眠気が残っていた。
いまが昼か夜かもわからず、世話をしてくれている相手が誰なのかもわからない。食事も排泄も他人任せで、礼を言うことすらままならない。こんな状態がいつまで続くのだろうと考えると、ひどく心細くなった。
せめて、手足が動くようになってくれればいいんだが。
***
――リンハルトなのか?
胡乱な発音のカスパルにそう訊ねられて、僕は彼の目と耳が機能していないことに気が付いた。僕の姿が見えているのなら、僕の声が聞こえているのなら、彼がそんなことを訊く必要はないからだ。
カスパルは目をきちんと開けていたから、目が見えていないなんて思わなかった。うまく喋れないのも、寝たきりで喉が渇いているせいなのだと思っていた。食事を零してしまうのも、手足がないために体の均衡を保つのが難しいからなのだろう。そう勝手に納得していた。でも、そうではなかったのだ。
どうやったら僕の意思をカスパルに伝えられるか考えて、カスパルの肌に指で文字を書いてみた。でも、それでは意思疎通はできないらしく、カスパルは「わからない」と言うように首を振った。
カスパルの傷を覆っている包帯を交換して薬も塗ってあげたいけれど、いきなり服を脱がせては驚くだろう。僕は断りを入れるつもりでカスパルの肩に軽く触れて、それから衣服を脱がせ始めた。
カスパルは抵抗しない。されるがままに裸にされている。僕が何をしようとしているのか察してくれたようだ。僕は包帯を取り去って、傷口を湿らせた布で拭って、血止めの軟膏を塗り、新しい包帯を巻き直した。
それを終えたあとはカスパルに服を着せて、汚れた包帯を捨てるために部屋を出ようと思ったのだけど――そこでふと、カスパルが目覚めてから一度も排泄をしていないことに気がついた。
あまり食べていないから尿意は湧いていないのかもしれないけれど、僕がいるあいだに済ませておいたほうがいいだろう。意識がないうちならともかく、意識があるいま漏らすことになってはかわいそうだ。
そう思ってカスパルの下腹部に指を当てて、合図のつもりでそこを軽く叩いた。特定の行為をするときに特定の合図を毎回すれば、カスパルもそれが合図だと理解してくれるだろう。
人前で排泄をすることに抵抗があるらしく、カスパルは戸惑った表情を浮かべていた。無理もない。だけどしばらくすると諦めたのか、僕が下腹部を叩くのに合わせて少しずつ盥に排泄を始めた。
排泄が終わったあとは下半身を拭ってあげて、カスパルを寝台の上に仰向けに横たえた。それから部屋を出て介護に使った布などを洗っていたとき、国の指導者である『彼』に声をかけられた。
いつまでカスパルの世話をするつもりなのか――そう問われて、僕は言葉を詰まらせた。
カスパルがあと何年生きられるかはわからないが、仮に何十年も生き続けるとして、お前はずっとあいつの世話をするのかと。それができないのなら、中途半端に情けをかけるべきではないと、そう指摘された。
それは正論だったし、僕自身にもいつか限界が来ることはわかっていた。僕の留守中は人を雇ってカスパルの面倒を見てもらうつもりだけど、僕自身に何かあったら誰かに頼むことすらできなくなってしまう。
カスパルの世話を続けることができなくなる日はきっと来る。そのとき、カスパルは誰かの助けがなければ生きていけない。そうなったときに見放すくらいなら、最初から手を差し伸べるべきではない。『彼』は僕にそう言いたいのだと思う。
僕はその問いに対する適切な答えを見出せなかった。自分でも自分の気持ちがわからなかった。ただ、このままカスパルを放っておくことはできないという強い想いだけがあった。
だから、僕かカスパルのどちらかが動けなくなるその日まで、僕はカスパルの面倒を見続けるつもりだと答えた。その言葉を聞いた『彼』は、それ以上は何も言わずに去っていった。
***
リンハルトは毎日オレのところに来て、オレの世話を焼いてから帰っていく。
今日もいつものように食事を口に運ばれて、それを咀嚼して飲み込んだ。
目覚めたばかりのころは擦り下ろした果物とかだったが、最近は魚の身をほぐしたものを与えられるようになった。できれば肉も食べてえけど、きっとまだ胃が弱っているから口にしたら吐いちまうんだろうな。
食後は口の中に刷毛をつっこまれて歯を磨かれた。
家にいるときは骨の台に豚の毛を植え付けた刷毛を使っていたけど、たぶんいま使われているのはそんなにいいものじゃない。小枝の先端を煮て叩いて、針で梳いて柔らかくした簡易的なものだと思う。それでも、口の中まで綺麗にしてくれるのはありがたかった。
いつも食事のあとは包帯を交換したり、体を拭いてもらったりしてるんだが、今日は少し違っていた。
リンハルトはオレの服を脱がして包帯を外したあと、オレの体を抱えてどこかに移動したようだった。それからリンハルトの膝に乗せられたらしく、背中や尻に他人の体温を感じた。
何をする気だと思って身構えているうちに、太腿のあたりに生温い湯をかけられた。脚、腹、腕と体の下側から順番に湯をかけられて、オレはリンハルトが体を洗ってくれているのだと理解した。手足がまったく動かせないから、オレはされるがままに身を任せていた。
胸や背中、首元まで軽く流されて、そろそろ頭だろうかと思っていると、瞼に指を添えられてそっと目を閉じさせられた。湯が目に入るからな。そりゃあ、こうするよな。
予想通り、次の瞬間には鼻や口を手で軽く押さえられて、頭の上から湯がかけられた。
オレは顔に湯がかかったのが不快で、犬みたいに頭を振って水滴を飛ばした。すると、すぐに布で顔を覆われて、濡れた肌を拭われる感触があった。
髪も何度かに分けてしっかりと濯がれた。しばらく洗っていなかったオレの髪は、指が通らないほど絡まっていたらしい。髪が指にひっかかって痛みが走ったから声を出して抗議すると、謝るように頭を撫でられた。
それから、髪を指で梳きながら丁寧に洗われた。慣れた手つきで頭皮を揉み解され、指の腹で頭皮を優しく刺激されると、心地が良くてうっかり眠っちまいそうになった。
最後に耳の穴に指を突っ込まれて、体全体を湯で流された。それでようやく終わりかと思ったら、また体を持ち上げられて寝台ではない場所に移動させられた。
足の先端が湯に浸かる感覚がする。どうやら湯船に入れられているらしい。そのままゆっくりと肩まで浸からされ、温かい湯に包まれる。あんまり気持ちがよくて、思わず深いため息が出た。
ありがとな、と感謝の気持ちを言葉にしたけれど、きちんと伝わったかはわからない。リンハルトの指先が何度も頬をくすぐってくるから、たぶん伝わっているんだろう。
***
カスパルの体調はずいぶんと良くなった。食事を摂れるようになったおかげで、減ってしまった体重もいくらか増えたと思う。あとは体力をつけるために、運動もさせてあげられたらいいのだけど。
治癒魔法の効力もあり、傷はもうほとんど塞がっていた。そろそろ体を洗っても大丈夫だろう。そう思って、湯を沸かして大きめの盥に注いで湯船の代わりにした。カスパルの体を洗って湯船に浸からせてあげると、彼は気持ちよさそうに目を細めて小さく欠伸をした。
弟がまだ赤ん坊だった頃、こうやって体を洗ってあげていたな。カスパルを眺めているうちに僕はそれを思い出して、なんだか懐かしい気持ちになった。
カスパルとは、取り立てて仲がいいわけではなかった。士官学校に通っていたころ、たまに食堂や訓練所で話をしたことがある程度だ。
カスパルは話しているとこちらまで元気が湧いてくるような人物だった。乱暴なのは玉に瑕だが、明るくて前向きな性格をしていて、誰とでも分け隔てなく接する少年だった。
それから戦争が始まって、各国がいがみ合うようになって、僕たちは敵同士になってしまったけれど。こんな時代でなければ、友達になることもできたのかもしれない――メリセウス要塞を守備している将がカスパルだと知ったとき、僕はそんなことを考えてしまった。
だから、瓦礫の下でわずかに息をしているカスパルを見たとき、どうしても見捨てることができなかった。
彼が敵であることくらいわかっていた。きっと、僕の同胞たちの命もたくさん奪ってきたのだろう。だけど、それは目の前で尽きかけている命を見捨てる理由にはならないんじゃないだろうか。
……もしも彼が僕の立場だったのなら、きっとそんな甘いことは言わないのだろう。情に熱いいっぽうで、どこか冷めたところもある不思議な人だった。その不可解さに、僕は惹かれたのかもしれない。
***
その日、オレの体に触れた手は細くて小さかった。女の手だ、と思った。いつもオレの世話をしてくれている男の手ではない。
あいつはどうしたのか、今日は出かけているのか――そう訊ねようにも、オレにはもう相手と意思疎通をする術がなかった。
いつものが男リンハルトだったとしてもそうでなかったとしても、それぞれの務めや生活があるだろうから、常にオレの世話をできるわけではないのだろう。
だから、いまオレの世話をしているのが別の人間なのは仕方がないとは思った。
そうは思っても、まあ、不安にはなっちまうよな。オレはこんな状態だし、疲れて嫌になっちまったのかなって。そうであったとしても仕方ねえんだけど。
それからしばらくあいつは帰ってこなくて、オレは別の人間に世話をされていた。おそらく、一人ではなく数人が交代でやってくれている。
動けない相手の介護をするのに慣れている感じがしたから、たぶんそういう職業の人たちなんじゃねえのかな。まあ、確認できないからわかんねえけどさ。
オレは相変わらず立つこともできなくて、ずっと寝台の上で寝かされている。
……もしかしたら、オレの手足はもう腱が切れていて、二度と治らないのかもしれない。あまり察しのよくないオレにも、そのくらいのことはわかってきていた。
オレはもう、戦えない。
いまオレの面倒を見てくれている連中は、きっとオレがどこの誰なのかは知っているのだろう。だけど、戦えなくなったオレを責めたりはしなかった。むしろ、同情してくれているような気配すらあった。
こんな体じゃ武功を立てることもできねえし、生きていても何の役にも立てないならもう、いつ死んでもいいんじゃねえかなって。最近はそう、思うようになってきた。
***
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
グロンダーズの会戦で死んだはずの『彼』の姿を宮城内で見かけて、助けなきゃと思ったときにはもう体が動いていた。
『彼』に襲いかかっていた魔獣に射掛けて、魔獣の気を引いたまではよかったのだけど――僕にはちょっと荷が重かったのかもしれない。
人工紋章石によって魔獣と化した帝国兵の攻撃は苛烈で、すんでのところで避けたつもりが気づいた時には体の半分が吹き飛んでいた。
『彼』が大声で僕の名を呼んで、魔獣に斧を振り翳す。斧の刃は鈍い音を立てながら魔獣の頭蓋に食い込んで、魔獣がよろめいたところで仲間たちが矢の嵐を撃ち込んだ。
それが、僕が最期に見た光景だった。
僕はもう、死んでしまうのだろう。最期に『彼』に会えたのは嬉しかったけど、心残りがないと言えば嘘になる。故郷に残してきた兄弟たちも、心細い思いをしているであろうカスパルのことも気がかりだ。
……死ぬのは嫌だな。
とっくに覚悟は決めていたはずなのに、そのときになるとやっぱり怖かった。
***
あいつがいなくなってから、たぶん何節か経ったんだと思う。
あいつはもう帰ってこないのかもしれない。そう思って、諦めかけた頃だった。寝台で寝ていたオレに、急に誰かが抱きついてきたんだ。
肌の感触と匂いで、男だとはすぐにわかった。オレの頬や顎のあたりにさらさらした髪が当たる感触があるのは、相手がオレの首筋に顔を埋めているからだろう。
――リンハルトなのか?
ちゃんと発音できてたのかはわからねえけど、オレは相手にそう訊ねた。すると、相手がオレを抱き締めたまま小さく頷くのが、肩口に当たる感触でわかった。
ああ、やっぱり、リンハルトなんだな。
声を聞きたいと思ったけど、オレにはもうそれは叶わなかった。顔も確認できねえし、抱き締め返すこともできねえしで、オレはとりあえず適当な声を出すしかなかった。
どうすればいいかわからなくてオレがもぞもぞ動いている間にも、リンハルトはぎゅうぎゅう抱き締めてくる。なんだよ、ほんの数節離れてただけだろって。笑っちまうよな。こんなにも、お前に会いたかったなんてさ。
お前がいなくなるまではそんなふうに思ったことなかったのに、いざいなくなったら、寂しくて仕方がなかった。
できることならもう一度、昔みたいに一緒に飯食ったり、遠乗りにでも行きてえなって、そう思うようになった。けどさ、そうは言っても、もう無理だもんな。
いまのオレは、自分じゃ歩けもしないし、何もできないただのお荷物だ。だから、いまこうしていられるだけでも充分に贅沢で幸せだと思った。
リンハルトはしばらくオレから離れようとしなかった。オレを抱えて膝に乗せたり、髪を指で梳いたりして、まるでオレの存在を確かめているみたいだった。
***
修道院でカスパルの姿を見つけたとき、僕は驚きのあまり言葉を失った。カスパルはとっくの前に、メリセウス要塞での戦いで死んだものだと思っていたから。
最後にカスパルの姿を見たのは、メリセウス要塞に光の杭が落下してくる直前のことだった。そのとき、カスパルは左腕を負傷していた。
カスパルに治癒魔法を施しながら、もうこの腕は駄目かもしれないと僕は思っていた。武器の刃に毒が塗られていたのだろう。僕と合流したときにはすでにかなり毒が回っていて、カスパルの左腕は糜爛していた。
治癒魔法は人間の自己治癒能力を高めるだけのもの。切れた健を繋げるだとか、壊死した部分を治すだとか、人間の能力を超える治癒は施せない。それでも、カスパルは片腕になったとしても戦い続けるつもりだったのだろう。
光の杭が落ちてきたのはその直後のことだった。爆発によって目が一時的に焼かれ、耳がほとんど機能しなくなっても、僕の名を呼ぶカスパルの声だけはなぜか鮮明に聞こえたのを覚えている。
……僕を、庇ったのだと思う。
気がつくと、僕はカスパルに突き飛ばされて地面へと倒れていた。町は一瞬で瓦礫の山と化していて、吹き飛ばされた仲間たちの亡骸があちこちに転がっていた。
周囲を見回しても、近くにいたはずのカスパルの姿が見当たらない。瓦礫の下敷きになったのかもしれないと思い至って、僕は必死になってカスパルを捜した。
柄にもなく大声を出して、瓦礫を手で撤去して。爪が剥がれるまで捜したけど、ついにカスパルは見つからなかった。そうこうしているうちに本隊から撤退の合図が出て、僕は後ろ髪を引かれる気持ちでメリセウス要塞をあとにした。
それから同盟軍がアンヴァルまで侵攻してきて、僕は指揮していた祈祷兵たちと共に降伏した。
ペトラやドロテアも戦っていたし、僕なりに奮戦したつもりだったんだけど……見知った仲間たちが目の前で肉塊になっていくのを見ているうちに、戦う意味がわからなくなってしまったんだ。
クロードは亡国となったファーガスの将兵たちも同盟軍に取り込んで、急速に勢力を拡大させていた。士官学校時代に面識のあった人たちもいて、捕虜である僕に対しても友好的だった。
僕は同盟軍の人々と共に彼らが本拠地にしている修道院まで移動して、そこで負傷したカスパルと再会した。
カスパルは四肢を失っていたけれど、拷問されたわけではなさそうだった。カスパルに怯えた様子はなかったし、柔らかい寝台に寝かせられて清潔な衣服を着ていたから。
髪も肌もとても綺麗な状態だったし、傷もほとんど残っていなかった。きっと、誰かが負傷したカスパルの治療をして、ずっと介護をしていたのだろう。
労力にもならない敵軍の将を、なぜ同盟軍は保護していたのだろうか。
貴族とはいえ、継承権のないカスパルに人質としての価値はほぼ無いと言って差し支えない。だから、帝国軍との交渉の道具にするためではないだろう。
紋章持ちなのであれば、四肢がなくとも種馬として生かしておく価値はあるのかもしれない。けれど、それもカスパルには無縁のことだ。
……純粋な親切心や好意でカスパルを保護していたのだろうか。
僕はカスパルの世話をしていた人に礼を言いたくて、同盟軍の人々に訊ねてみた。それによると、カスパルの世話をしてくれていた『彼』は、宮城での戦いで命を落としたのだという。
戦闘が長引く可能性や、自身が戦死する可能性も考えていたのだろう。『彼』は数年分の給金を看護師に前払いして、自分が戻らない場合はカスパルのことを頼むと依頼していったそうだ。
なぜ『彼』がカスパルのためにそこまでしてくれたのかはわからないけど、カスパルにも『彼』の死はきちんと話すべきだろう。そうは思ったものの、目も見えず耳も聞こえないカスパルにそれをどう伝えればいいのか、僕には検討がつかなかった。
***
違和感を覚えたのは、それからほどなくしてだった。
リンハルトはオレに食事を与えたり、排泄や入浴の手助けをしてくれた。けど、以前のように特定の部位を軽く叩くといった合図はなくて、代わりに髪や顔を撫でてきた。
……リンハルトじゃ、ない、のか?
いや、ここにいるのは間違いなくリンハルトだ。オレが寝台から落ちて怪我をするたびに治癒魔法で治してくれるし、ときおりジンジャーティーを淹れては口元に運んでくれる。オレのことを、昔からよく知っているリンハルトだ。
じゃあ、以前オレの世話をしてくれていたあいつは誰なんだ? 手の、小指側に、胼胝があったあの男。そうだ、あれは弓胼胝だ。
オレと関わり合いのある、弓を得意とする男――一人だけ、思い当たるやつがいる。でも、あいつが帝国にいるはずがないんだ。
……帝国? そもそもここは帝国領なのか? あのあとメリセウス要塞が制圧されたのなら、次に同盟軍が向かうのはアンヴァルなんじゃないのか? アンヴァルは、エーデルガルトはどうなった?
オレを助けてくれたのがリンハルトじゃなかったのなら、オレはいままでどこにいたんだ? あいつが同盟軍に協力していたのだとしたら、オレはずっと敵地にいたのか?
……なにもわからねえ。
オレが唸っているとリンハルトが心配そうな手つきで頬に触れてきたから、なんでもないと首を横に振った。
考えてもわからねえし、訊くこともできねえしで、オレはもう考えるのをやめた。
眠ろうとして瞼を閉じると、額に柔らかなものが触れた。たぶん、リンハルトの唇だろう。おやすみ、と言われたような気がして、返事をしようとしたけどうまく声を出せなかった。
ああ、いま、お前がどんな顔してるか見てえなって、そう思ったよ。
ひとつのかたち
「僕と性交する相手になってほしいんだ」
雇い主であるリンハルトに呼び出されてヘヴリング邸の一室を訪れたシェズは、開口一番に告げられたその言葉に目を眇めた。
リンハルトの誘いに乗ってヘヴリング邸に雇われてからおよそ一年――意味深長なリンハルトの言葉とは裏腹に、特にこれといった出来事もなく日々を過ごしていた矢先のことだ。
リンハルトは常に茫洋とした雰囲気を纏っていて、何を考えているのかわかりにくい。紋章と釣り以外のものには興味を持たず、一日のほとんどを寝て過ごしている。
そのいっぽうで、思わせぶりな発言で異性を振り回すことでも有名だった。「好きだよ」だけならまだ可愛いもので、「子供を作りたい」などと言われた者もいるという。
そんなリンハルトから出てきた言葉がこれなのだから、怪訝な面持ちになってしまうのも致し方ないというものだ。
「……『恋人』とは言わないってことは、つまり性交だけする関係を求めてるってこと?」
「うん。話が早くて助かるよ」
シェズの問いにリンハルトは笑顔で頷く。
先程の提案だけでも多大な顰蹙を買いそうなものだが、それに加えてこの笑顔である。もっと遠慮や抵抗を感じられる態度をしてもいいのではないだろうか。
「……まあ、話くらいは聞いてあげるわ。あなた、『そういう』人ではないものね」
シェズは軽くかけていた椅子に深く座り直した。
リンハルトは思わせぶりな態度で異性を振り回すことが多いいっぽうで、「遊んでいる」というような噂が流れたことがないのもまた事実だ。
要するに、思わせぶりな態度をしておきながらそれ以上の関係にはならないということである。
口説き落とした相手を顧みない者を「釣った魚に餌を与えない」と比喩することがあるが、リンハルトはさしずめ「餌をちらつかせるだけで釣らない」といったところか。
それはそれでたちが悪い気もするが、とにかく不特定多数の相手と性的な関係を持つような人物ではないということだ。
「てっきり私は、あなたはカスパルと付き合ってると思ってたんだけど」
シェズが話を訊く気になったのは、リンハルトとカスパルの関係を確認するいい機会だったからというのもある。
数年に渡るフォドラ統一戦争が終結したあと、帝国将としての役割を終えたカスパルは一人旅に出た。
もともと旅というもの自体に興味があったようなのだが、戦争のさなかに勉学に励んだ結果として、本で読んだものを実際に見てみたくなったらしい。
カスパルは各地を放浪しては不定期に帝都へと戻り、その際には必ずヘヴリング邸を訪れる。そして、リンハルトに会いに来るのだ。
二人は人目を憚らず抱擁や口付けをし、はにかんだように笑っては手を絡ませ合う。場合によってはリンハルトの私室で同衾し、入浴を共にすることもあった。
「幼なじみだから仲がいいのだろう」で片付けるには、二人にはあまりにも親しすぎる。きっと、二人は深い関係なのだ。ヘヴリング邸で働いている誰もがそう思っていた。
「君の言う『付き合ってる』という言葉がどういう意味か把握しかねるから『うん』とは言えないけど……カスパルは僕の親友だし、恋人だよ。一番大切な人だと思ってる」
リンハルトはあっさりと、それも心から嬉しそうにそう答える。まるで宝物を自慢するような、愛おしさが籠った口振りだった。
だからこそなおさらシェズは解せなかった。
「なのに私としたいの? なんで? ああ、最近よそよそしいなと思ってたけど、もしかして喧嘩したとか?」
「そういうんじゃないよ」
カスパルがヘヴリング邸を訪れるのは相変わらずだが、ここ数節ほどは客間で寝ているようだし、入浴も共にしていないようだった。
あれだけべったりだった二人がこれなのだから、下世話な勘繰りもしてしまうというものだ。それでありながらカスパルは欠かさずリンハルトに会いに来るし、リンハルトもそれを受け入れる。
傍から見れば二人の距離感は不可解そのものであり、使用人たちのあいだではさまざまな憶測が飛び交っていた。
「……カスパルは僕と性交したくないらしいんだ。僕、というか、性行為そのものに忌避感があるんだと思う。男相手だから嫌ってわけじゃなくて、女性が相手でも嫌みたいなんだ。口付けしたり、抱き締め合ったりするのは好きみたいなんだけど」
リンハルトは力なく、つぶやくように告げる。それはどこか、子供のように頼りないものだった。
カスパルが色恋沙汰に興味がない質であるということはシェズも理解していた。とはいえ、肉体は成熟しているのだから性欲自体がないわけではないのだろう。
そう推察していたのだが――カスパルの色恋沙汰への関心のなさは、シェズが想像していたより根深いところに起因するようだ。
「カスパルとはしてないんだ? てっきり、カスパルがあなたの部屋で寝るときはしてたんだと思ってたわ」
「君もけっこうはっきり訊いてくるよね。予想が外れて残念だけど、カスパルとは一度もしてないよ」
他人の性事情に口を挟むのは野暮というものだが、そもそもリンハルトが不躾な提案をしてきたのだから、こちらも多少は不躾になっても許されるだろう。そんな言い訳がシェズの口を動かした。
「カスパルは僕がしたいなら構わないって言ってくれたけど……僕はカスパルが嫌がることは絶対にしたくない。だから君と性交をするのは我慢する。そうカスパルに伝えたんだ」
リンハルトはそこまで言うと俯いてしまった。その表情はシェズから見えないが、声に滲む寂しさからおおよその想像はついた。
「カスパルと一緒に寝たり、一緒に入浴したらやりたくなっちゃうから、肌が触れ合うような付き合いはしばらく避けてたんだ。でも、僕も性衝動を我慢するのはつらかったし、カスパルもその距離感が居心地悪かったみたいで……しばらくしたら、カスパルに『オレじゃないやつとしてもいいんだぞ』って提案されたんだよね」
リンハルトはぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。シェズは相槌も打たず黙って聞いていた。
「でも、それだとカスパルを裏切るみたいだし、カスパルもいい気分はしないだろうって、最初は悩んだよ。カスパルが僕を試してるんじゃないかって可能性も考えた。でも、居心地の悪い距離感のままじゃいつか破綻してしまうんじゃないかって不安だし、このまま我慢し続けてカスパルを襲ってしまうようなことがあったら僕が後悔する。だから思いきって、他の人と性交することで性衝動を発散させられないかって思ったんだ」
「それで私に声をかけたってわけね」
シェズはリンハルトの提案の意図を理解して頷いた。
恋人を前にして性衝動を我慢するのは生半可なことではないのだろう。だが彼はそれを乗り越えて、カスパルに嫌われる可能性をも覚悟して、シェズに相手を頼んできたというわけだ。
「誤解を与えたくないから先に言っておくけど、僕はなにも手近にいたのが君だからって理由で君に頼んでるわけじゃない。僕は君のこともすごく好きだ。信頼もしている。本当だよ。もちろん、君ならこの提案を受け入れてくれる可能性があると踏んだからというのもあるけど」
シェズは自分が性に奔放なほうであるという自覚はある。
誰でもいいというわけではないが、ある程度の好意がある相手に対しては性行為への抵抗が希薄になるのだ。それはおそらく、多くの他人が「性行為を許容する距離感」よりも広いのだろう。それを他人は「奔放」と呼ぶ。
「カスパルのことがすごく好きなんだ……好きで、好きで仕方ないから、嫌われたくない。でも、性衝動にも抗えないんだ。食事や睡眠を求めるように、体がそれを求めてしまう」
リンハルトは切々と、まるで懺悔をするように告げる。
自分に対してリンハルトが告げる「好きだよ」の軽さと比較してしまい、シェズの胸中には苛立ちのような感情がうっすらと灯ったが、それは燃え上がることはなく凪ぐようにして鎮火した。相手がカスパルだと思うと、なぜかしょうがないという気持ちになってしまったからである。
「まあ、私は構わないわよ。私もあなたのことは好きだしね」
シェズは脚を組み直しながらリンハルトに婀娜っぽく微笑みかけた。
正直に言ってしまうと、シェズはリンハルトの「護衛としてヘヴリング邸に住む」という提案を受け入れた時点で、彼と肉体関係になる可能性を視野に入れていたのである。
もっと言うなら、恋愛関係を含めたものを想定していたのだが――ヘヴリング邸で働き始めてからほどなくして、カスパルとの親密さをこれでもかと見せつけられたために、その可能性を除外することとなったのだ。
「ただし」
シェズはそこで一度言葉を切り、リンハルトをまっすぐに見つめて告げる。
「私はあなただけじゃ物足りないかもしれないし、女の子とやりたくなるときもあると思う。そのときはそうさせてもらうつもりだけど、あなたはそれで構わないかしら?」
「もちろん。君がほかの人と関係を持つことを僕が管理する資格はないし、君がこの関係を解消したくなったときは君の意思を尊重するつもりだよ」
リンハルトは即答した。シェズの言葉に動揺する様子は全くない。彼にとって、シェズが他の相手と性交することは想定の範囲内だったのだろう。
配給された給仕服の裾をひらめかせながら、シェズはヘヴリング邸の廊下をゆっくりと歩く。
シェズの最大の武器は剣術の腕でも闇魔法の手腕でもなく、無防備を装える点である。虚空から現れる双剣は魔力を介したものではないため、敵の魔法によって攻撃手段を奪われることもない。
屋敷のいたるところに立つ重厚な鎧を纏った騎士たちは、その存在を主張することで抑止力として働いている。逆に、シェズは警備の者だと気づかれるような装いでは最大の武器を生かせない。
そういった理由から渡されたのがこの給仕服である。
とはいえ、もともと傭兵くずれでしかないシェズに給仕としての仕事は求められていない。
その代わりに「普段は足音や気配を消して歩かないこと」「体つきから剣士であることがばれる可能性があるため、露出の高い服は着ないこと」といった、ある意味では難題とも言える要求をされていた。
シェズに渡された給仕服も、首元から手首や足首までもが隠れるような意匠である。開放的な服装を好むシェズにとってはいささか煩わしくはあるが、敵を油断させるには適していると言えた。
あれから、リンハルトはなんの音沙汰もない。
自分から提案しておいてなんなのだ、もしかしてまたからかわれたのか――そう勘繰ることもあったが、あのときのリンハルトの切々とした口調を思い出すと、冗談だと流すのも失礼な気がした。
「シェズ、話があるんだけど」
書斎の扉を開いて中に足を踏み入れたところで、室内にいたリンハルトに呼び止められる。シェズはいつも決まった時間に決まった場所を巡回しているため、それを見越して待っていたのだろう。
「カスパルが帝都に帰ってるんだって。彼をここに招いて君の紹介をしたいと思うんだけど、いいかな?」
「紹介? カスパルに私を?」
なにを今更――シェズの抱いた疑問が顔に出ていたのか、リンハルトは言葉を付け足した。
「僕の性交の相手としての紹介って意味だよ」
「……それ、カスパル本人に言っていいことなの? あてつけだと思われるんじゃないかしら」
「カスパルはそんな性格じゃないよ」
リンハルトは苦笑すると書斎の椅子から立ち上がり、机上にあった一通の手紙を手に取った。
「……でも、カスパルがいい気分にならないのは確かだと思う。僕はそれでも、カスパルにはきちんと伝えておきたいんだ」
リンハルトは手紙を封筒に差し入れ、封蝋でしっかりと封をする。その手紙が、おそらくはカスパルに宛てられたものなのだろう。
わざわざ招かなくても待っていればカスパルはいずれヘヴリング邸を訪れるはずだ。だが、リンハルトはあえて招くことによって「用事がある」という意思を示したいに違いない。
翌日、カスパルはヘヴリング邸を訪れた。
「よう、リンハルト!」
「久しぶりだね、カスパル」
応接間へと通されたカスパルは、リンハルトの姿を見て笑顔を浮かべる。それから飼い主にじゃれつく犬のようにリンハルトに抱きついたあと、用事があることを思い出したのかやっと椅子に腰を下ろした。
「君に提案されてから、僕の相手をしてくれる人を探してたんだけど……シェズが引き受けてくれることになったんだ」
護衛として横に立っていたシェズを手で示しながら、リンハルトはカスパルにそう説明する。
「えっ……相手って、シェズなのかよ」
カスパルはリンハルトとシェズを交互に見ながらぱちぱちと目を瞬かせた。もともと童顔のカスパルだが、こういった表情をするとより幼く見える。
「うん。シェズならカスパルとも仲がいいし、君を不安にさせにくいかなって……どう、嫌かな?」
様子を伺うように訊ねるリンハルトにカスパルは首を横に振った。
「いや、シェズがいいならオレも構わねえけどよ。わざわざこんなふうに改まって紹介されるとは思わなかったぜ」
「だって、カスパルに黙ってこそこそ会うなんて真摯じゃないじゃないか。カスパルが嫌だって言うなら、シェズには謝ってこの話はなかったことにしてもらうつもりだった」
リンハルトはさも当然と言わんばかりの態度で答える。
シェズとカスパルは二人して顔を見合わせたあと、リンハルトに視線を戻した。
「……なんつうか、お前って本当にオレのこと好きなんだな」
「当たり前じゃないか。カスパルだって、気分はよくないだろうけど僕のために提案してくれたんでしょ? 本当に嬉しいよ、ありがとう」
カスパルに誠意が伝わったことに安堵したのか、リンハルトは柔らかな笑みを浮かべる。
「その……改めて、よろしく頼むぜ、シェズ。リンハルトのこと、任せたからな」
「ええ、こちらこそよろしくね」
カスパルは気恥ずかしそうに頬を搔いてシェズに向き直った。目の前で堂々と惚気られた気分になりつつ、シェズも改めてカスパルに挨拶をする。
シェズと彼らとの関係は、あくまで利害の一致で結ばれた契約に過ぎない。
それでもカスパルにリンハルトを託されたという事実は、シェズにとって誇らしいことだった。カスパルがそれだけ自分を信用してくれているという証左のように感じられたからだ。
リンハルトはカスパルの留守中にシェズを抱き、カスパルが訪れたときはカスパルを自室に招いて二人で眠りにつく。
後ろめたさからなのか、リンハルトは自室ではシェズを抱かなかった。シェズに一人部屋をあてがって、数日に一度の頻度で行為に及ぶのだ。
リンハルトはカスパルと一度も性行為をしていないと言ったが、シェズが認識しているだけでもリンハルトは片手で数えられないほどカスパルと寝所を共にしている。
すぐ隣に性愛の対象が無防備に眠っていて、その体温や吐息を感じられる距離にいながらも、リンハルトはずっと耐え続け、文字通り「一緒に寝る」ことだけに徹していたということか。
その我慢強さに敬服しながら、半年ほど関係を続けた頃のことだった。
リンハルトが自室にいる気配がないので、シェズは彼を探すために応接間の扉を開けた。すると、そこには長椅子に座ったカスパルと、彼の膝に乗ったリンハルトの姿があったのだ。
カスパルはリンハルトの背中を撫でさすりながら、その首筋に顔を寄せてなにかを囁いている。カスパルの言葉に対してリンハルトは心地よさそうに目を細め、ときおりカスパルの空色の髪を愛おしげに梳いていた。
シェズには決して見せない、リンハルトの甘やかな表情と仕草――それを見た途端、シェズの心に湧いたのは嫉妬でも悲しみでもなく安堵だった。
シェズの存在は、彼らの関係を損なうものではないのだ。カスパルとリンハルトを繋げる絆のひとつとして、シェズの存在は認められている。
シェズは音を立てないようにそっと扉を閉め、踵を返して自室へと戻った。
それから更に数節が経った。
「カスパル、もう一節も帰ってないんだって?」
いつものようにヘヴリング邸で警備の任務にあたっていたシェズは、仕事の合間にリンハルトに訊ねた。
各地を回って旅をしているカスパルは、長期間帝都に戻らないことも多かった。戻った際はいつもヘヴリング邸に顔を出すのだが、その姿を見なくなってから一節が経過している。
「手紙のやりとりくらいはしてるの?」
「いや、まったく。ああ、ベルグリーズ伯とはしてるみたいだけど」
リンハルトは相変わらずの眠たげな表情で言葉を続けた。
「心配しないの?」
「まあ、一節くらいならね。もしものことがあったらベルグリーズ伯経由でうちにも連絡がくると思うし」
リンハルトは手にした本から視線を外さないまま答える。
「……カスパルって、あなたのこと信頼しているのね。私がここに住んでるってことは知ってるのに、ずっとあなたに会いにこないなんて。まあ、私も信用されているって自惚れてもいいのかしら」
大切な存在がいればこそ、人は不安になるものだ。その相手が自分を裏切らないか、自分から離れてしまわないかという懸念に心が支配される。そして、それが「恋」や「愛」と呼ばれるものの一部でもあった。
「まあね。カスパルは僕のことを信用も信頼もしてくれてるし、僕に対して誠実であろうと努力してくれているから」
リンハルトの言葉からは、自分がカスパルの一番近くにいるという自信が感じられる。だからこそ、この状況においても不安に駆られることがないのだろう。
「……まあ、呆れられた可能性もあるのは否定できないけどね。そのときはそのときだよ」
リンハルトは読んでいた本をぱたんと閉じて机に置き、背後に立っていたシェズに向き直った。
「あんなにカスパルに嫌われたくないって言ってたのに、随分あっさりしてるのね」
「仮定の話で一喜一憂しても仕方ないからね」
リンハルトは淡々とそう告げたあと、本を持って立ち上がった。本棚に向かうその背から、シェズに対して更に言葉が続けられる。
「君と僕との関係はもう屋敷の使用人たちにはほとんど知れ渡ってるみたいだね。まあ、一人部屋をあてがった時点でこうなるとは思ったけど」
「言っておくけど、私は他言してないわよ」
「わかってるよ。君がそんな人間なら最初から頼んでないからね」
リンハルトは振り返ってシェズに視線を向けた。
「僕は傍から見れば、恋人が留守なのをいいことに使用人に手をつけている放蕩貴族ってやつなんだろうね。あるいは、男に飽きて女に鞍替えした薄情者と思われているのかも」
「まあ、否定はできないわよね。私たちの関係を他人に説明するのも難しいし」
リンハルトの自嘲的な言葉にシェズは苦笑する。
リンハルトは他者からの評価を気にする性質ではないし、リンハルトの提案を受け入れた時点で下世話な噂が立つことはシェズも覚悟していた。
リンハルトにとっては、自身の評価よりもカスパルとの関係を維持することのほうが大切なのだろう。それはある種の献身にも見えて、シェズは少しだけカスパルが羨ましくなった。
そんな会話を交わした数日後のことだ。
見回りのために屋敷の中庭を歩いていたシェズは、遠くから響く蹄鉄の音に耳を澄ませる。その音は門で一度止まったあと、庭を通過して厩へと向かったようだった。
「誰かしら。来客があるとは聞いてないけど……」
来客の予定があるのであれば、屋敷の使用人たちにも伝達されるはずだ。シェズは訝しみながら音の聞こえるほうに向かって歩いていく。
連絡もなくヘヴリング邸に訪れて、それでいて門番に咎められない――その条件を満たす者と言えば、シェズの知る限りでは数人しか思い浮かばなかった。
「よお、シェズじゃねえか! 久しぶりだな!」
「カスパル、戻ってきてたのね」
案の定と言うべきか、勝手知ったるといった様子で厩を利用していたのはカスパルだった。
カスパルは旅衣のまま、鞍も外さず馬の背からひらりと飛び降りる。荷物も馬の背に乗せたままなあたり、ベルグリーズ邸には寄らずまっすぐにヘヴリング邸に馬を走らせたらしい。
「しばらく見ないから、どこかでのたれ死んでるんじゃないかって心配してたのよ」
「ひっでえな! オレはそんなにやわじゃねえよ」
軽口を叩き合っていると、ヘヴリング邸の従僕が慣れた様子でカスパルの荷物を受け取り、汚れた外套を脱がせて屋敷の玄関へと先導する。
「奉仕されること」に慣れたカスパルの所作に、彼もまた貴族であったことをシェズは今更になって思い出した。
「リンハルトも待ってるわよ。あなたが帰ってくるのを楽しみにしてたんだから」
シェズの言葉にカスパルは決まりが悪そうな表情を浮かべる。
「あー……まあ、後でな」
歯切れの悪い返答に、シェズは訝しげに首を傾げた。その様子を見て、カスパルは困ったように頭を搔く。
「なんつうか、あいつ怒ってねえかなって思ってよ……」
「リンハルトがあなたを?」
よくよく考えると、二人が喧嘩をしたところをシェズは見たことがなかった。
心当たりがあるとすれば、カスパルが「首のない騎士を見た」と騒いだときにリンハルトが強く反論した出来事くらいか。
いつものリンハルトであれば「そんなものいるわけないでしょ」で流しそうなところを、そのときは強い語気で反論していたため印象に残っていた。
後になって、リンハルトが心霊現象の類を怖がる質だと知って納得したものだ。
「ややこしい時期に長期間留守にしちまったからなあ」
「私が知る限りだと、別に怒ってなかったわよ」
「そうか? いや、まあ……それならいいんだけどよ」
カスパルはどこか歯切れの悪い様子で頭を搔く。
「もう、ここに来ておきながらなんなのよ。本当は会いたいんでしょ? とっとと会ってきなさいよ」
シェズが呆れながら扉を指差すと、カスパルは「わかったよ」と苦笑しつつ屋敷へと入っていった。
「シェズは、リンハルトから何か聞いてねえのか? その、オレに対する文句とか……」
ヘヴリング邸の廊下を歩きながら、カスパルはシェズに訊ねる。
「食べ物を飲むように食べるのはやめるべきとはよく言ってるわね。あと、危険なことに首をつっこむのもやめてほしいみたい」
食事の仕方に関しては、それはもう呆れるほど何度も言っていた。「前にこんなことがあった」「このときもこうだった」と、「カスパルの危険な行動列伝」のような思い出話を聞かされた回数も少なくない。
しかし、よくよく聞けばそれらの愚痴もカスパルの健康や身の安全を危惧してのものだ。
あれはもしかして、愚痴のような口調で惚気られていたのではないか――シェズはカスパルに説明しながらその可能性に思い至った。
「そういうのじゃなくてよ。その……オレが、リンハルトに『オレじゃないやつとしてもいいんだぞ』って言ったから……オレがリンハルトのことを嫌いになったと思われてるんじゃねえかって」
カスパルはいつになく不安げな様子で声を震わせている。
「今更そんなことを気にしてるの? だとしたら、わざわざあなたに私のことを『性行為をする相手です』なんて紹介しないでしょ」
確かにカスパルがリンハルトに告げた言葉は、リンハルトの愛情を拒否する、あるいはリンハルトへの愛情を否定するものと捉えられかねない。
実際、シェズもリンハルトから話を聞かされたときにその可能性を考えた。だが、カスパルの様子を見た限りリンハルトへの愛情が冷めたというわけではなさそうだ。
そうであったなら、こんなにも心配そうな、不安そうな表情は見せないだろう。
「時間が経ったからこそ不安なんだよ。リンハルトが、その……やっぱり性交ができる相手のほうがいいって言い出したらって……」
「それなら、リンハルトに直接訊いてみたら? 私に訊いても仕方ないでしょう」
シェズがそう告げると、カスパルは困ったように眉間に皺を寄せた。そして、しばらく沈黙したのちに再び口を開く。
「昔からこうなんだよな。誰かとそういう仲になっても、いざ行為に誘われると億劫になっちまうっていうか、嫌な感じがしちまって……それを伝えるとみんな『あなたは私のことが好きじゃないのね』なんて言って離れてくんだ」
当時のやりとりでも思い出したのか、カスパルは深いため息をついた。
カスパルの口から性愛に関する話題が語られるのは不思議な気分ではあったが、それはカスパル自身が忌避していたのも大きいのだろう。シェズはそんなことを考えつつカスパルの話に耳を傾けた。
「変な話だよな。愛情がなくたって性交をできるやつはたくさんいるじゃねえか。それなのに、性交ができないと愛情がないって思われちまうなんてよ」
カスパルがリンハルトに愛情を抱いているのは本当なのだろう。だが、その感情は性欲に直結していないのだ。
カスパルの言葉をシェズがそう受け取ったのは、シェズにも思い当たる節があるからだった。
シェズにとって性行為は抱擁や口付けの延長上にある「親愛を示す行為」であり、これはカスパルの感覚とは反対と言える。それと同時に、カスパルを拒絶してきた人々とも異なると言えた。
多くの他人にとって性行為は抱擁や口付けの延長上ではあるものの、それと同時に「特別な相手としか行わないもの」でもある。そのため、性行為をすると「自分は相手にとって唯一絶対の存在である」といった認識を与えてしまうのだ。
だが、シェズにとってそれは「特別な行為」ではない。それこそ、抱擁や口付けと同じように、親しい相手への親愛の証として行うものだった。なんだったらカスパルとでもできる。
その認識の違いによって、揉め事になったことがシェズには何度もあった。
かと言って誰でもいいわけではないのだが、多くの他人は「親しい相手としかしない人種」と「誰でもいい人種」の二種類しか認識していないらしい。そのため、後者であると誤解されがちなのが現状だった。
「リンハルトとは、うまくやっていきたいんだ。だから、オレはしていいって言ったんだよ。相手が女のときはオレが動かなきゃならないから無理だったけど、相手が男なら我慢してればなんとかなるかと思ってさ。でも、リンハルトはオレの嫌がることは絶対にしないって言って、結局なにもしなかった」
そこまで言って、カスパルは立ち止まった。
「オレにはわかんねえけど、性衝動を我慢するのってつらいんだろ。腹が減っていて、目の前に好物の食べ物があるのに、それを我慢するみたいな感じか?」
「まあ、そんなところかしら。どうしようもなくお腹が空いたときは、誰かから奪ってでも食べ物を摂取しようとする人もいるわよね。性衝動もそれと同じじゃないかしら。あなたも、戦場にいたなら少しは心当たりあるでしょ?」
性に関する知識に乏しいとはいえ、カスパルも戦場に立っていた武人だ。戦場で理不尽な暴力が氾濫していることは理解しているだろう。
「リンハルトはすごく我慢してるんだと思うわよ。私に話を持ちかけてきたときも、『カスパルに嫌われたくない』って泣きそうだったもの」
シェズの言葉にカスパルは「そうなのか」と驚いたように目を丸くした。
「リンハルトはオレと一緒に寝るとつらいって言うか……したくなっちまうらしくてさ、しばらくオレと寝るのを避けてたんだ。でも、シェズが相手してくれるようになってからはまた一緒に寝れるようになった。たぶん、発散できるようになって我慢が利くようになったんじゃねえのかな」
リンハルトはカスパルを傷つけないために距離を取っていたようだが、それはカスパルにとってもつらいことだったのだろう。
肉食動物と草食動物が共存しようとしているような、そんな不均衡な関係を二人は理性と信頼で保とうとしているのだ。それは、言葉上での不確かな約束よりもよっぽど強固な絆と言えるのかもしれない。
「オレはリンハルトとまた寝れるようになって嬉しいし、リンハルトもたぶん、つらいのが軽くなって助かってるんじゃねえのかな。だから、シェズには本当に感謝してるんだ」
カスパルはシェズに向かって深々と頭を下げた。
カスパルにまっすぐな視線を向けられると、不思議と気恥ずかしい気持ちになる。その感情をごまかすようにシェズは口を開いた。
「まあ、礼を言われるようなことなのかはわからないけど……世間一般的な感覚だと、私たちの関係は理解し難いものだと思うわよ」
「それでも、オレはお前に礼を言わなきゃならねえ。ありがとうな」
カスパルの真摯な瞳に、シェズは再びたじろいでしまう。この屈託のない瞳を、リンハルトはいつもどのように受け止めているのだろうか。
「オレ、リンハルトにとっていい恋人じゃねえかもしれねえけどさ。あいつがいいって言ってくれる間は、あいつに甘えようと思う」
そう言って笑うカスパルはどこか憑き物が取れたような雰囲気だった。
「リンハルトはオレにとって一番の親友で、恋人で……大切な存在なんだ。オレがリンハルトに向けている気持ちと、リンハルトがオレに向けている気持ちは違うものなのかもしれねえけど、リンハルトはそれでもいいって言ってくれてる。だから、あいつがオレのことを好きでいてくれる間はそれに応えたいと思う」
カスパルがリンハルトに向ける情は、確かに愛と呼ぶには純粋すぎる。恋と呼ぶにはあまりにも真っ直ぐで、友情と呼ぶにはいささか重い。おそらく、その感情は恋慕や友愛といった既存の言葉では言い表せないものなのだろう。
「あれ、カスパル。帰ってきてたんだ」
惚けたような高い声に振り向くと、通路の向こうからリンハルトが歩いてくるところだった。
「お、リンハルト! 久しぶりだな!」
カスパルはぱっと表情を明るくしてリンハルトに駆け寄っていく。二人は久々の再会を喜び合い、抱擁を交わしては額や頬を啄み合った。
「戻ってくるなら連絡のひとつくらいくれればよかったのに」
「悪いな。手紙を出すより馬を走らせた方が早いと思ってよ」
リンハルトが不満げな声を上げる。それに対して、カスパルは困ったような表情を浮かべるだけだった。
「そうだ、お前に土産があるんだよ。ほら」
カスパルは荷物の中から一冊の本を取り出してリンハルトに手渡した。
フォドラの言葉で書かれた本ではないのだろう、見慣れぬ記号のような文字で記された本は、しかしその装丁からして紋章学に関する本であることがわかる。
「これ、パルミラの学者が書いた紋章学の本かい? 驚いたな、君がこんな気の利いたことをするなんて」
リンハルトは目を丸くしてカスパルからその本を受け取る。シェズには解読不能なその文字を、リンハルトは一目でパルミラ語であると認識したらしい。
「旅に発つ前にシェズから教えてもらったんだ。恋人にはこういうのを贈ると喜ばれるんだろ?」
「ちょっとカスパル、そこまで言わなくていいのよ。自分の発案ですって顔してなさいよ」
シェズが慌てて口を挟むと、カスパルはきょとんとした表情で首を傾げた。その後ろで、リンハルトが肩を震わせて笑っているのが見える。
「なるほど、シェズの発案か。君はこういうの得意だもんね。まあ、ありがたく受け取っておくよ」
リンハルトはカスパルが贈った本を大事そうに胸に抱えた。
「それはそうと、今日は泊まってくのかい?」
「ああ、しばらくゆっくりしていこうと思ってよ。でも急に来ちまったし、無理そうだったらうちの屋敷に泊まる」
「問題はないよ。使用人たちももう慣れてるし、カスパルをもてなすことに関しては一家言あるからね。今夜は君の帰還祝いで宴会でもしようか」
「そりゃ楽しみだぜ!」
リンハルトの提案にカスパルが破顔する。
それから三人はお互いの近況を語り合ったり、今後についての意見を交わしたりと穏やかな時間を過ごした。
夜になると、屋敷の者たちだけでささやかな宴会が開かれた。
使用人たちはリンハルトとカスパルおよび、リンハルトとシェズとの関係を察しているだけあって、カスパルとシェズが並んで食事をする姿に居心地の悪そうな表情を浮かべている。
この屋敷で働き続ける以上、悪評が立つのはシェズにとって好ましくはない。なにより、カスパルと不仲であると思われてしまうことが心外であり不快だった。
「ねえ、カスパル。ここに口付けていい?」
シェズは手にしていた酒杯を卓上に置き、自身の頬を指で示しながらカスパルに訊ねる。
「え? 別にいいけど……」
カスパルが戸惑いつつも了承すると、シェズは席を立ってカスパルの頬に口付ける。使用人たちがざわめくのを聞き流しながら、シェズは口角を上げて微笑んだ。
「ええ……? 君らそんなに仲良かったの? なんか妬けちゃうんだけど……」
シェズの行動に驚いたのはリンハルトも同じだったらしい。
「妬けるって、どっちに? 私? カスパル?」
「両方かな……いや、妬けるっていうより羨ましいかも」
「なんだよそれ」
シェズとリンハルトのやりとりにカスパルは笑い声をあげる。使用人たちも、その笑い声につられるように表情を和らげた。
リンハルトとカスパルは杯を傾けながら、離れていた期間に何をしていたかを語り合い始める。シェズは葡萄酒を口に運びつつ、そんな二人の姿を遠くから眺めていた。
二人はお互いを大切に思い、愛しく思い、だからこそ一緒にいられないこともある。だが、それでも二人は寄り添い合っているのだ。
それは傍から見れば奇異な関係に映るのだろうし、「そんなものは愛情ではない」と否定する者もいるのだろう。だが、それは当人たちが決めることだ。
それから夜も更け、酒宴は自然とお開きとなった。使用人たちもそれぞれに与えられた部屋へと戻っていき、広間にはカスパルとリンハルトだけが残される。
カスパルは酔いが回って眠そうにしており、リンハルトに寄りかかって居眠りを始めていた。
「あら、酔い潰れちゃったの」
「長旅のようだったし、疲れているのかもしれないね」
リンハルトはそう言って、カスパルの頭をぽんぽんと叩く。それはまるで幼い子供を寝かしつけるような仕草で、シェズはその姿を微笑ましく見つめていた。
「君、カスパルのこと好きなんだね」
リンハルトが不意にそうつぶやいたため、シェズは驚いて顔を上げる。
「どうして?」
「だって、カスパルのことすごく優しい目で見つめてるから。恋してるみたいだなって」
リンハルトに指摘されて初めて、シェズは自分自身がカスパルに向けている眼差しに気が付いた。
「まあ、恋なのかはわからないけど。好きだとは思ってるわよ」
「そっか。よかった」
リンハルトは安心したように微笑む。それは、いつもどこか斜に構えた言動をする彼にしては珍しい表情だった。
「いいんだ?」
「いがみ合われるよりは遥かにいいよ」
「あなた、以外と自惚れ屋なのね。カスパルが私に嫉妬するような性格かしら。それとも私をそういう人だと思ってる?」
「さあ、どうかな」
リンハルトは悪戯っぽく笑って、カスパルの頭をひと撫でした。その指先が慈しむように髪に触れるのが、シェズには妙に羨ましくも感じられた。