君と歩む
「先生の手って、冷たいんですね」
剣胼胝に覆われたベレトの手をそっと掬い上げながらリンハルトは呟いた。
ベレトは暫し反応に困っていたようだったが、やがて曖昧に笑い、空いている方の手でリンハルトの頭をそっと撫でる。艶やかな黒髪を優しく梳く手もやはり冷たくて、その温度差にリンハルトは一抹の寂しさを感じていた。
「……あまり気にしたことがなかった。ジェラルトにも何も言われたことがない」
ベレトは自室の寝台に腰をかけたまま無感情につぶやく。男性二人がくつろぐにはいささか狭い寝台ではあったが、それでも一人がけの椅子を二脚並べるよりは快適だった。
「恋人とかに言われたことないんですか?」
「恋人……?」
ベレトは初めて聞く単語を耳にしたとばかりに目をしばたたかせる。
ベレトはときおりこうしてリンハルトの体に触れてくることがあったが、それは決まって性的な意味合いを持つものではなかった。美しい花を、あるいは親が子を愛でるのと同じように、ただ純粋な愛情からそうしているのだろう。
青年になってもなお性的に未成熟な者が存在することを、リンハルトは身近な友人を通して知っていたが――生育過程で必要な教育を受けなかったのだろうか、ベレトの場合は更に輪をかけて未成熟な印象を受けた。
「特定の相手と親密な関係にある男女のこと、だそうです。別に同性でもいいですけど。親密と言っても先生と生徒のような親密さではなくて、性交渉を前提とした関係であることが多いですね」
「ああ……ないな」
ベレトは相変わらずの真顔で断言する。その無機質な反応が会話の内容とあまりにもかけ離れているものだから、リンハルトはその落差に思わず笑ってしまった。
「何がおかしいんだ?」
「いえ、先生らしいなって」
リンハルトはベレトの指先に己の指を絡ませ、体温を分け与えて温めようとする。しかし、冷えた指先が体温を取り戻すことはなく、それはただリンハルトの体温を奪っていくばかりだった。
なぜだろうか――リンハルトはそこにいくばくかの寂しさを覚えてしまう。自分と彼は何かが決定的に異なっていて、決して交わることはないのだと突きつけられているような、そんな気がしてしまうのだ。
「……先生って脈拍も弱いですよね。気絶しているときなんて本当に死んでいるみたいで、いつも不安になります」
リンハルトはベレトの手首に親指をあてがい、脈拍を測るように皮膚をなぞる。健常な人間であれば心臓の拍動に合わせて指の腹を押し返してくるはずだが、ベレトの場合はそれがほとんど感じられなかった。
これだけ脈拍が遅ければ体温が低いのも納得ではあるものの、この遅さは明らかに徐脈である。通常であればこれだけ脈拍が遅ければ目眩や吐き気を伴うはずであり、ベレトがなんの支障もなく剣を振り回しているのは医学的には有り得ないことだった。
「なぜ悲しそうなんだ?」
「……え? さあ……どうしてでしょうね」
感情が表情に出ていたことを指摘され、リンハルトはごまかすように笑顔を作る。
この漠然とした不安の正体が何であるのか――リンハルトはそれに薄々勘づいていたが、同時に自分の力が及ぶものではないということも理解していた。
ベレトの身に起こった、あるいは彼が起こした不可解な事象の数々を、リンハルトは知り得る知識の中から紐解き、そこからひとつの仮説を導き出していたのだ。
ベレトはリンハルトの笑顔につられたように小さく微笑むと、彼の頭を再び撫でる。それは心地の良い営みであるはずなのに、リンハルトはなぜか泣きたい気持ちになった。
***
エーデルガルトの腕の中で目を閉じているベレトは、まるで本当に死んでいるようだった。
いや――確かに死んでいたのだ。
救護のために駆けつけたリンハルトがその胸に耳を当てたとき、彼の鼓動は確かに止まっていた。
心臓が止まったばかりなのであれば、通常はまだ体温が残っているはずだ。だがべレトの体は冷たく、それは死亡してからいくばくかの時間が経っている証だった。
治癒魔法部隊を率いているリンハルトは、いままで数え切れないほどの仲間たちの亡骸を目にしている。それ故に、その目測に誤りはないように思われた。
しかし、ベレトの心臓はふたたび時を刻み始めたのだ。
これは女神がもたらした奇跡なのか――その場にいた誰もがそう思った。
***
意識を失っているベレトを天幕まで運んだリンハルトは、規則正しく上下する彼の胸を眺めては愛おしさに目を細めた。
重ねた手から伝わってくる体温は暖かく、その鼓動は力強い。
リンハルトはベレトの手を握って自分の頬に押し当てたのちに、彼の指先に唇で触れた。手で、頬で、唇で――その体温を余すことなく感じていたかった。
「先生……僕はね、ずっと怖かったんです」
リンハルトは眠るベレトに静かに語りかける。それはまるで告解のようでもあった。
「僕はいつか貴方を置いていってしまうんじゃないか……いえ、僕だけじゃない。みんなが貴方を置いていって、いつか貴方が独りぼっちになってしまうんじゃないかって、ずっと不安でした」
リンハルトはベレトの胸に顔を埋めて耳を澄ませる。とくんとくんと脈打つ音が耳に心地よく、それはまるで子守唄のようだった。
「そんなの、僕の身勝手なんですけどね。貴方がそれを望むのであれば、僕にそれを咎める権利はありませんし……だけど、貴方が望んだ結果がいまの貴方なのだとしたら……僕はとても嬉しいと思う」
愛しい人の体温と鼓動を感じながらリンハルトが語りかけていると、やがてベレトの瞼がゆっくりと開いた。
「……よかった。意識が戻ったんですね」
まだ意識がぼんやりとしているのか、ベレトは無言のままリンハルトを見つめて何度か瞬きをする。それから自分の手に添えられているリンハルトの手を軽く握り返し、不思議そうに首を傾げた。
「……冷たいな」
「貴方が暖かいんですよ」
ベレトの第一声にリンハルトは苦笑する。
いままでベレトの手は冷たいと思っていたが、本来の彼の体温はリンハルトよりも高いようだった。そんな何気ない発見が、リンハルトの胸を愛おしさで満たしてゆく。
「髪の毛、前の色に戻ったんですね。緑の髪も綺麗でしたけど……僕はこっちのほうが好きですよ」
五年前と同じ漆黒へと戻ったベレトの髪を梳きながら、リンハルトは柔らかく微笑む。
短髪のベレトは鏡がなければ自分の頭髪の色の変化などわからないのだろう。興味深そうに自分の髪を触りながら、リンハルトを見上げて首を傾げていた。
レアを彷彿とさせる緑の髪――あれが女神の庇護を示しているのだとしたら、女神は信仰に背いたベレトを見放したということだろうか? いや、そうであるなら、ベレトの心臓はいま脈を打っていないだろう。
「……これが女神様からの贈り物なのだとしたら、女神様というのは本当に慈悲深い方なんですね。信仰に背いた僕たちにまで慈悲を施してくださるんですから」
女神の支配から脱して人間の歴史を歩む――その選択をしたベレトに人間としての命を返還してくれたのなら、背徳に他ならない行為すら女神は受け入れてくれたのだろうか。
「……そうだ」
リンハルトにされるがまま髪を撫でられていたベレトは、ふと思い出したように周囲を見回す。
何かを探すような視線に気づいたリンハルトはそれが何かを問おうとしたが、それよりも早くベレトの手が寝台の隅にかけてあった彼自身の外套へと伸びた。
「戦いが終わったらこれを渡そうと思っていた」
ベレトが外套から取り出したのは掌に収まる大きさの小箱である。蓋を開けて差し出された箱の中には指輪が収められており、その行為の意図するところはリンハルトの知る限りひとつしかなかった。
「……貴方は本当にいつも唐突ですね」
いまこれを渡すのか、この行為の意味をきちんと理解しているのか――リンハルトの脳裏にはそんな疑念も湧いていたが、それ以上にベレトの不器用な愛情に対する愛おしさが勝っていた。
「受け取ってほしい」
ベレトはリンハルトの左手を取ってその薬指に指輪を通す。リンハルトは己の指に嵌められたそれをしばし眺めたのち、ふっと溜息をひとつ漏らした。
***
冬の訪れを感じさせる冷たい風が、窓の隙間から吹き抜けてリンハルトの髪を揺らした。
リンハルトは白髪の混ざった髪を耳へとかけ直し、閉ざし忘れていた窓をそっと引いてから長椅子へと戻る。
寒がりなリンハルトを心配したのだろうか。長椅子に腰をかけていたベレトはリンハルトの肩へと毛布を運び、それごと包み込むようにしてリンハルトを抱き締めた。
その暖かさを享受しながらリンハルトはベレトに体重を預け、寄りかかる形で肩口に顔を寄せる。そこでふと視界にベレトの髪が入り、リンハルトは誘われるように手を伸ばした。
「ベレトも白髪が増えましたよね」
ベレトの黒い髪の合間に混ざる銀糸を探りながら、リンハルトはくすくすと小さく笑みを零す。
「なぜ嬉しそうなんだ?」
「だって、お揃いじゃないですか」
不可解そうに瞬きをするべレトの頬をリンハルトはそっと撫で、そのまま彼の目尻に指先を伸ばして目のふちをなぞった。
「ふふ、皺が出てきましたね」
「リンハルトも」
ベレトはリンハルトを真似るようにその目元に指先を滑らせ、それから頬へと手を添える。くすぐったさに身を捩るリンハルトをよそに、ベレトはそのまま唇に触れて親指の腹でそこをなぞった。
「……口付けをしてもいいか?」
ベレトの視線は真っ直ぐにリンハルトの瞳へと注がれている。目を逸らすことなく見つめ返せば、やがてそれは静かに細められた。
リンハルトは返事の代わりに瞼を閉じ、ベレトの唇が自分のそれに重ねられるのをじっと待つ。ほどなくして乾いた唇が押し当てられ、啄むように何度か重ねられた。
口付けを交わす傍ら、リンハルトは甘えて体を摺り寄せる。ベレトはそれに応えるようにリンハルトの腰に手を回し、抱き寄せて温もりで包み込んだ。
こうしていられるのはいつまでだろうと、リンハルトはときおり考えることがある。それは悲観ではなく、ただただこの日々が愛おしいからだった。
もしかしたら、明日の夜にはこの幸せな時間が終わってしまうのかもしれない。あるいは今日なのかもしれないし、数時間後なのかもしれない。有限の時の中で、人の命はあまりにも儚かった。
それでも、自分がいま幸せを感じているように、ベレトも幸福を感じていてくれるのなら――リンハルトには、それだけで充分なように思えるのだ。
彼らの事情
・カスベルとリンドロが結婚しています。
・カスベル中心のつもりだったのですがリンドロも同じくらい出てきます。
・カスベルのペアエンドにおけるカスパルの役職は不明ですが、この話では軍務卿を継いだ(ベルグリーズ家は兄が継いでいる)という設定になっています。
・ヴァーリ家を継いだベルナデッタは教務卿の役職も継いでいるのか、そもそも紅花ルートでは教務卿という役職は存在するのか……という点は謎なのでぼやかしています。
歌劇団の復興に勤しむドロテア宛に、ヴァーリ家からの書簡が届いたのが先程の話だ。
正確には、宛先はドロテアではなく「ヘヴリング夫妻」である。戦後、父親から爵位と内務卿の役職を継いだリンハルトは、士官学校時代からの級友であるドロテアを妻に迎えたのだった。
書簡の送り主はもちろんベルナデッタだ。
級友とはいえ、リンハルトにしろドロテアにしろ、ベルナデッタとは個人的なやりとりをするほど親密とは言いにくい。そんな彼女がいったい自分たちに何の連絡だろうか――不思議に思いながらドロテアが書簡に目を通すと、飛び込んで来たのは婚姻の報せだった。
婚約相手はかつての級友であり、現在は帝国の軍務卿を務めているカスパル=フォン=ベルグリーズらしい。ベルグリーズ家の家督はカスパルの兄が相続しているため、彼がヴァーリ家に婿入りする形での婚姻のようだった。
「リンくん、カスパルくんとベルちゃんが結婚するんですって!」
ドロテアは書簡を手にしたままリンハルトの研究室に駆け込んだ。
リンハルトは椅子に座ったまま書物を片手に振り返ると、表情ひとつ変えずに「ああ、知ってるよ」と答える。
「僕、このあいだ会議で城に呼び出されたでしょ。そのときにカスパルやフェルディナントもエーデルガルトに招致されててさ。会議が終わったあとカスパルの口から直接聞かされたんだ」
内務卿のリンハルト、軍務卿のカスパル、宰相のフェルディナント――国内の重役たちが勢揃いということは、おそらく宮内卿のヒューベルトもその場にいたのだろう。
彼らはもともと六大貴族なのだから、そうしてひとつの場に集まることは珍しいことでもない。とはいえ、彼らの同窓生であるドロテアとしては除け者になっているようで寂しくもあった。
「そうだったんですか。それなら私にも教えてくれたっていいでしょう?」
あっけらかんと説明するリンハルトにドロテアは不満げに唇を尖らせる。
「僕から伝えていいのかわからなかったから。もしかしたら、ドロテアにも本人から伝える予定なのかなと思って」
「……まあ、それもそうですね」
ドロテアはベルナデッタから届いた書簡に目を落とす。確かに、わざわざ書簡を寄越してくれたということは自分の言葉で伝えたかったのかもしれない。
婚姻の報告を伝える定型文めいた文章が綴られた便箋の下には、もう一枚小さな便箋が同封されていた。そこには、ベルナデッタの文字で「ドロテアさんへ」と小さく書き添えてあったのである。
***
「……あっ! ドロテアさーん!」
後日、帝都の一角で待ち合わせをしていたドロテアはひさびさに会ったベルナデッタの弾んだ声に破顔した。
「ひさしぶりね、ベルちゃん、元気にしてた?」
「はい、おかげさまで!」
ドロテアがベルナデッタと会うのは数節ぶりだ。
ベルナデッタはもともと引き籠もりがちであることに加えて、ヴァーリ家を継いだために多忙を極めているらしく、こうして顔を合わせる機会はほとんどなかったのだ。
「それにしても驚いたわ。まさかベルちゃんとカスパルくんが結婚するなんて」
「えへへ……やっぱりドロテアさんもそう思いますよね?」
ベルナデッタは照れながらも惚気けるような笑みを浮かべる。
ドロテアにとってカスパル=フォン=ベルグリーズは、士官学校時代の同窓生のひとりである。気さくで人好きのする愛想のいい男だったが、女性に対する配慮に欠けていたのは否めない。
あの鈍感男が相手でベルナデッタは大丈夫なのだろうか――とドロテアはいらぬ心配もしてしまったわけだが、今の幸せそうな笑顔を見ているとそんな不安もどこかへ吹き飛んでしまった。
「それにしても……どうしてカスパルくんなの?」
ドロテアが素直な疑問を口にすると、ベルナデッタはきょとんとして首を傾げた。
「どうしてって、なにがですか??」
「結婚相手のことよ。カスパルくんって恋愛にはあまり興味がないみたいだし、元気すぎてベルちゃんともあまり気が合わなそうに見えたから」
ドロテアは率直な感想を述べる。
確かにカスパルは魅力的な男性だ。逞しいし、親切だし、容姿や家柄だって優れている。貴族であることを鼻にかけることもなく、努力を絶やすこともない。
とはいえ、あまりにも元気すぎて人を振り回しがちなのも事実であった。特に、ベルナデッタのように内向的な人物とは水と油のように見えるわけだが。
「えっ、ええと……その……あのですね……」
ベルナデッタはもじもじと指を絡めて視線を彷徨わせる。
――これは何やら楽しい話題の予感がする。
「待って、ここじゃあなくてあっちで話しましょうか?」
ドロテアはベルナデッタを近くの喫茶店に誘い、じっくりと色恋沙汰に花を咲かせることにした。
「ヘヴリング夫人」となってからというもの、迂闊な発言ができない身分ということもあり、俗な話題から離れざるを得なかった。そんなドロテアにとって、ベルナデッタの惚気は願ってもいないご褒美だったのだ。
「それで……どういういきさつでカスパルくんのことを意識し出したの?」
茶菓子と紅茶を注文し終えるなりドロテアは切り出す。
口火を切ったのが自分である以上、これはどうしても聞き出さねばならない話題だ。内気なベルナデッタと朴念仁のカスパルの馴れ初めなど、いまを逃せば聞く機会はないかもしれない。
「えーっとですね、士官学校に通ってた時にカスパルさんに拉致されて……」
「拉致?」
漠然と甘酸っぱい想い出を聞かされることを予想していたドロテアは、ベルナデッタの口から発せられた「拉致」という言葉に耳を疑った。
「そしたら、連れて行かれた先が素敵な夕焼けが見える丘だったんですよ!」
「……ちょっとよくわからないわ。あまり恋に落ちるような状況には思えないけれど」
「ええっ? あ……えと……つまりですね……」
ドロテアに追及されて、ベルナデッタはしどろもどろになりながらも話を続けた。
「最初はその、ベルも怒ってたんですよ! でも、その……素敵な景色を見たら、怒るのもなんだか馬鹿らしくなっちゃって。それでカスパルさんと一緒に夕焼けを眺めてたら、怒りなんてどっか行っちゃったんです」
「ああ……それがきっかけでカスパルくんの魅力に気づいたってことなのね?」
「はい! 素敵だったなあ……」
うっとりと熱っぽい瞳で呟くベルナデッタを見て、ドロテアはつい苦笑した。
経緯は甘酸っぱいとは言い難いが、つまるところその出来事のおかげでカスパルと会話をする機会が生まれ、そこから少しずつ惹かれて行った――ということなのだろう。
「それにしても、カスパルくんも罪な男よね」
ベルナデッタの惚気をひとしきり聞いて満足したドロテアは紅茶に口を付けてから呟いた。
「え? どうしてですか?」
ベルナデッタは茶器を両手で持ったまま首を傾げる。
「だってそうでしょう。ベルちゃんみたいな素敵な女の子を何年も待たせるだなんて。士官学校のときから付き合っていたのに、つい最近まで婚約はしなかったってことよね?」
ドロテアが指摘すると、ベルナデッタはまたも瞳を輝かせた。
「……そう、そうなんですよ! 付き合ってたかと言われると怪しくはあるんですけど……カスパルさんはいっつもベルを振り回すのに、あんな感じだからずっとあやふやなままで⋯⋯でも、けっきょく毎回絆されちゃうんですよね」
ベルナデッタは堰を切ったようにカスパルへの愚痴や惚気を吐き出し始める。そのどれもが他愛のない事柄ばかりだが、だからこそ彼女たちの関係が長く続いていたことがよくわかった。
「カスパルくんって、そういうのに疎そうだのね。それなのにけっこうモテてたみたいだし」
「そうなんですよ! ベルなんかに構わずほかの女の子たちと仲良くすればいいのに、なんでベルなんかと……」
「だからじゃないかしら? ベルちゃんがいたから、他の子たちとは距離を置いてたんじゃない?」
「……えっ……そうなんでしょうか……?」
ドロテアの意見にベルナデッタははっと息を呑んだ。
カスパルは士官学校時代から不思議と異性に好かれていたが、特定の相手と親しくしている様子はなかったように思える。逢い引きに誘われることはしばしばあったものの、それもことごとく断っていたようだ。
それは単に彼が色恋沙汰に興味がなかっただけなのかもしれないが、ベルナデッタとの婚姻が決まったいまとなってはそのように捉えても許されるだろう。
「ドロテアさん……ひょっとして、ベルたちって両想いだったんでしょうか……?」
「ふふ、そうだったらいいわねえ」
おずおずと尋ねるベルナデッタにドロテアはそっと微笑みかけた。
既に婚約しているというのにこの初々しさはどこからくるのだろうか。ドロテアは眩しいものを眺めるような気持ちで頬を紅潮させるベルナデッタを見つめた。
「……はい! あ、ありがとうございます……!」
ベルナデッタはぺこりと頭を下げて感謝の意を示す。そのまましばらくの間もじもじとしていたが、やがて何かを決意したように顔を上げた。
「あ、あの……! それでですね! ドロテアさんに相談があるんです!」
ベルナデッタは何かを憚るようにドロテアの耳に顔を寄せる。ドロテアもそれに合わせて顔を近づけ、小声になったベルナデッタの言葉に耳を済ませた。
「け、結婚式のあとってあれがあるじゃないですか?」
「あれ……って、もしかして初夜のこと?」
ベルナデッタが言い淀むのを察したドロテアは気を利かせて自分から話題を切り出す。結婚式のあとにある大声では言い難いこと――と言えば、つまりそういうことだろう。
「はい、それなんですけど……カスパルさんって鈍感じゃないですか……だから、もしかして結婚式が終わったあとそのまま寝ちゃう可能性もあるかなって……」
「それは……ないとは言いきれないわね……」
ベルナデッタの心配はドロテアにも身に覚えがあることだった。
昔から色恋の話題に敏感なドロテアの耳には、カスパルに想いを寄せていた女性たちの不満の声も入っていたのだ。
いわく、それとなく逢い引きに誘っても気づかないだとか、思い切って夜のお誘いをかけてみても意味を理解してくれなかっただとか――
他人の機微を察して行動することはできるのに、こと色恋沙汰に関してはからっきしなのだ、カスパルという男は。
「だから初夜くらいは絶対にいい雰囲気にしたいんですよお……! でも、どうやったらうまくいくかわからなくて……ドロテアさんならそういうの詳しいですよね?」
「そうねえ……」
ドロテアは顎に手を当てて考え込んだ。
確かに、色恋の駆け引きはドロテアの得意とするところだ。しかし、あの鈍感男に定石通りの誘いをかけたところで思うように動いてくれるものだろうか。
「ベルも、いままでいろいろ試してみたりはしたんですよ。一緒にお酒を飲んだ夜に『酔っ払っちゃったみたいです』って言いながらしなだれかかってみたり」
「それで、どうなったの?」
「『そっか、なら寝台まで運んでやるよ』って言われて、本当に寝台まで運ばれただけでした……ああでも、お姫様抱っこしてもらえたのであれはあれで……」
「よくないわよ、ベルちゃん」
「はうっ⁉ そ、そうですよね⁉」
ドロテアが呆れてぴしゃりと言い放つと、ベルナデッタはしゅんとして項垂れた。
なるほど、このようにして「これはこれでいいか」とベルナデッタも妥協してしまい、その結果としてなかなか関係が進展しなかったのだろう。その様子がありありと思い浮かび、ドロテアは飽きれつつも微笑ましい気持ちになってしまった。
「ええと、それでですね。まだ続きがあるんですよ。寝ているふりをして、衣服をこう、色っぽい感じに着崩してみたんですよ! そしたらカスパルさんもドキッとするかなあって……」
「ええ、それで?」
「『がっはっは! お前もけっこう寝相悪いんだな!』って言われながら服を直されて毛布をかけられました……」
「そう……大変だったわね」
ドロテアはベルナデッタの苦労を慮って、そっとその肩を抱いて慰めた。
カスパルの性欲の希薄さはある意味では信頼できるものの、ベルナデッタのいじらしい努力が空転してしまうのは可哀想だ。
こうなればもうベルナデッタに努力させるのではなく、カスパルの意識のほうを変えるしかないだろう。それが可能な人物と言えば――
「そうだベルちゃん。カスパルくんにそれとなく伝えてもらえないか、私からリンくんに頼んでみるわ」
「えっ⁉ いいんですか?」
ドロテアは名案だとばかりに手を打って提案する。その提案に、ベルナデッタもぱっと表情を明るくさせた。
「リンくんならカスパルくんと付き合いも長いし、きっと上手く言ってくれるわよ」
「わあ……! ありがとうございます!」
ベルナデッタは嬉しそうにドロテアの手を取ってぶんぶんと振り回す。その無邪気な様子に、ドロテアも思わずくすりと笑みを漏らした。
***
「ええ~? 僕からカスパルに夜の営みを勧めろって?」
ドロテアに話を聞かされたリンハルトは案の定、あからさまに嫌そうな表情を浮かべた。
「カスパルくんにそんなこと言えそうなの、リンくんしかいないじゃない? ベルちゃんのためだと思ってなんとかお願いできない?」
ドロテアが食い下がると、リンハルトは「うーん」と唸りながら考え込む。
「でも、こういうのは当人たちの問題なんじゃないのかい? 仮にカスパルにそれをできない切実な理由があるんだとしたら、部外者が何か言うのは不躾じゃないかと思うけど」
「それはそうなんだけど、ベルちゃんも奥手で恥ずかしがり屋だから……このままだと一生進展しそうにないじゃない?」
「まあ、そうだろうねえ……」
リンハルトもその点については同感らしい。彼は小さく溜息を吐くと、渋々といった様子でドロテアに向き直った。
「わかったよ。でも、相手が相手だからあまり期待しないでほしいな」
「ありがとう、リンくん! あ……ベルちゃんからの相談ってのは秘密でお願いね?」
ドロテアの追加の注文に、リンハルトまたひとつため息をついて面倒臭そうに頭を掻いたのだった。
***
カスパルと約束を取り付けたリンハルトは、馬車を走らせてベルグリーズ低を訪れた。
リンハルトが爵位と役職を同時に継いだのとは異なり、ベルグリーズ家は爵位と役職を別々の人間が継いでいる。軍務卿の役職は戦争で功績を挙げたカスパルが、爵位と土地は彼の兄がそれぞれ引き継いでいるのだ。つまり「軍務卿がヴァーリ家に婿入りする」という前代未聞のこの状況も、なんらおかしくはないのである。
「こうして二人でお茶をするのも久しぶりだね」
「ああ、そうだな」
客室へと通されたリンハルトはカスパルの向かいに腰を掛けて茶を啜る。リンハルトの嗜好を熟知したベルグリーズ邸の使用人は、彼が好むハーブティーを手際よく準備して去って行った。
カスパルがヴァーリ家に婿入りすれば、この使用人たちと顔を合わせることもなくなるのだろうか。それを思うとリンハルトは柄にもなく感傷的な気分になってしまった。
もっとも、それ以上に感傷的な気分になっているのは、カスパルが幼い頃から彼の世話していた使用人たちのほうなのだろうが。
「ドロテアのほうにもベルナデッタから手紙が来たんだ。君と結婚するって内容の」
「おお、やっと届いたのか! ベルナデッタのやつ、ドロテアとペトラには自分で伝えるからって聞かなくてよ」
案の定、カスパルはあえてドロテアには婚姻の報告をしていなかったらしい。その口ぶりからして、おそらくはブリギッドにいるペトラにもベルナデッタからの書簡が届けられているのだろう。
「正直、意外だったな。君は恋愛や結婚には興味がないものだと思ってたよ」
「んー……まあ、そうなんだけどよ。でも、だんだんそれも悪くねえかなって思えてきてさ。いまはベルナデッタが傍にいてくれるのがすげえ嬉しいっていうか……」
「へえ、君の口からそんな言葉が出てくるなんてね」
「なんだよそれ。オレだっていつまでもガキじゃねえんだぜ」
カスパルは心外だと言わんばかりに口をへの字に曲げる。
そんなカスパルの言葉を受けたリンハルトは、これは好機とばかりにそれとなく話題を切り出すことにした。
「そうだよね。君だってもう、子供がいても不思議な年齢ではないわけだし」
「……子供?」
リンハルトの指摘にカスパルはぽかんとした表情を浮かべる。
「うん。結婚するってことは、その辺も考えてるってことだよね?」
「いや、まあ……それはもちろん、そうなんだけどよ」
カスパルはもごもごと歯切れ悪く呟く。
「その、うちもそうだけど、ベルナデッタの家もいろいろあったみたいだからよ。あいつが望まねえなら、無理に子供を作らなくてもいいかと思ってる」
「……ふうん? でも、君は欲しいんじゃないの? 子供、好きだよね」
「そりゃあ、まあな。ベルナデッタとの子供なら、きっとすげえ可愛いだろうよ。それに……」
カスパルは少し言い淀んでからリンハルトをまっすぐに見据えた。
「……オレはベルナデッタと、家族になりてえんだ。高慢かもしれねえけどよ、あいつが得られなかったものを、オレが与えられたらなって思ってる。でも、ひとりよがりじゃあ意味ねえだろ? あいつの望みも聞かねえで、自分の気持ちだけ押し付けたって……」
ベルナデッタの家の事情はリンハルトやカスパルも知るところだった。だからこそカスパルはベルナデッタに「家族」という絆を与えたいと望むいっぽうで、彼女が子を望むとは限らないことも考慮しているのだろう。
……当のベルナデッタといえば、カスパルとの初夜がうまくいくかで思い悩んでいるわけなのだが。
「……君なりにいろいろ考えてるんだねえ」
「お前なあ……馬鹿にしてねえか?」
リンハルトの感想にカスパルが不満げに唇を尖らせる。それがなんだか可笑しくて、リンハルトは思わず笑みを零した。
「馬鹿になんてしてないよ。ただ、似たもの夫婦だと思っただけさ」
「なんだよそれ?」
カスパルは不可解そうに首を傾げる。
リンハルトはそんなカスパルに「なんでもないよ」と返すと、茶器に残ったハーブティーを口に含んだ。
「ねえカスパル。式が終わったらさ、ベルナデッタにいまの話をしてみたらどうかな。一緒に家庭を作りたいってさ。君と婚約をした以上、ベルナデッタだってその先のことは考えているはずだよ」
「お、おう。そうだよな。こういうのはちゃんと話し合わねえとな」
リンハルトの提言にカスパルは神妙な顔で頷く。
ベルナデッタやドロテアが望んでいた助言とは異なるかもしれないが、いちおうこれで約束は果たせただろう。
ふたりの関係が一歩前進することを願いながら、リンハルトは茶器を受け皿に戻してベルグリーズ邸をあとにしたのだった。
***
結婚式の当日は快晴だった。雲一つない青空の下、ヴァーリ邸の前には大勢の人が詰めかけており、屋敷の庭で行われた婚礼の儀には近隣の住民たちも見物に駆けつけていた。平民たちにとっても、貴族の令息たちが煌びやかな衣装に身を包んでいる姿は格好の娯楽らしい。
そういえば自分たちの挙式の際もずいぶんと見物人が集まっていたなと、リンハルトは他人事のように思い出していた。そのぶん警備も厳重となっており、護衛の兵士たちはずいぶんと硬い表情をしている。
リンハルトは婚姻の儀そのものに興味はなかったが、カスパルが主役である以上は見届けておきたい。そういうわけで結婚式に参列した彼は、周囲に倣って新郎新婦の姿を眺めていた。
やがて行列の先から馬車が到着し、花嫁を迎え入れるために従者たちが扉を開ける。ゆっくりと馬車の中から姿を見せたのは純白の礼服に身を包んだベルナデッタだった。
金糸で刺繍が施された朱子織の生地は遠目に見ても滑らかな光沢を帯びており、ベルナデッタの可憐さを際立たせている。胸元や裾に施された装飾も礼服に華やかさを添えており、新婦を飾り立てる意匠の数々にリンハルトは敬服する思いだった。
一方のカスパルといえば、婚儀用の礼服に身を包んでいるものの、筋肉のぶん体に厚みがあるためかどうにも窮屈そうだ。それも彼らしいと言えば彼らしく、リンハルトは内心でくすりと笑ってしまった。
***
そんな婚礼の儀から数年後――ヘヴリング夫妻の元には、またしてもヴァーリ夫妻からの書簡が届いていた。ドロテアは半ば定期連絡にもなっているその封書を確認し、リンハルトに内容を告げる。
「ベルちゃんとカスパルくんのところ、六番目のお子さんが産まれたそうよ」
「また? おめでたいのはいいんだけど、毎回お祝いに行くのもそろそろ疲れてきたなあ……」
「今度は双子ちゃんですって。お祝いの品は何がいいか、リンくんも一緒に考えてくれない?」
ドロテアは浮き足立った様子で、贈り物の候補をあれこれと挙げていく。
あの後、ベルナデッタの望みが実現されたのかは不明のままだが、少なくとも夫婦仲は良好のようだ。毎年のようにヘヴリング邸には出産の報せが届き、そのたびにドロテアが祝いの品を見繕っている。
リンハルトは、カスパルとはいまでも政でしばしば顔を合わせるのだが、この前などは城に第一子を伴ってきたのである。
ゆくゆくは家督や役職を継ぐ可能性もあることを考えると、いまのうちに主要貴族たちと面識を持たせておくのも重要というのは理解できるが――カスパルが我が子を伴ってきたのはそんな理由ではなく「昔、オレやリンハルトの親父もオレたちを城に連れてきただろ」という理由からのようだった。
カスパルの言葉を受けて、リンハルトは二十年以上前の出来事を思い出す。嫡子ですらないカスパルを城や要塞に伴う先代ベルグリーズ伯を、自分の父親が「ここは子供の遊び場ではないのだがね」と飽きれた様子で眺めていた。
「ふふ、もしかしてリンくんも子供が欲しくなっちゃった?」
「そういうんじゃないよ」
神妙な面持ちでカスパルからの手紙を眺めるリンハルトの肩をドロテアが楽しげに小突く。
伴侶が望むのであればそれも構わないとは思っているが――いまのリンハルトに「血を繋ぐ」という義務は課せられていないのだ。そうなのであれば、なにも古い習わしに則る必要もないだろう。
リンハルトは悪戯っぽく微笑む妻の笑顔を愛おしげに見つめながら、親友からの手紙をそっと棚の中へとしまい込んだ。