空を飛ぶ鳥の話
髪紐/二人旅/あいのかたち/メリセウス要塞にて/カスパルの看病をするリンハルト/釣りをするカスパルとリンハルト/甘いひととき/約束というわけではないけれど/旅立ちの日に
例えば、空を飛ぶ美しい鳥がいたとして、それを捕まえてしまえばきっとその美しさは損なわれるだろう。
籠に入れて、餌を与えて、大事に可愛がったとしても、その鳥本来の姿を見ることはできなくなってしまう。
それならば、鳥が自由に空を羽ばたく姿を遠くから眺めていたほうがいい。
だけど、もし鳥が外敵に襲われたり、怪我をしたりしたらと思うと、心配で仕方がないのだ。
だから、せめて目の届く範囲で見守らせてほしいと願ってしまう。
髪紐
髪を切るのがめんどうで、放置しているあいだに肩の長さを越えてしまった。邪魔だなあとぼやきながら伸びた髪を耳にかけていると、カスパルに「邪魔なら切っちまえよ」と飽きれた様子で言われた記憶がある。
カスパルがヘヴリング邸まで遊びにくるのは日常茶飯時で、召使いたちも慣れた様子で彼をリンハルトの部屋まで招き入れるようになっていた。
カスパルはいつもあれをしよう、これをしようと言い出してはリンハルトを連れ出そうとするのだが、大抵その提案はめんどくさくて実現しない。けれどカスパルはめげずに次の計画を立てては、またリンハルトを誘うのだ。
リンハルトの気が向けばカスパルの希望する場所まで遊びに行くこともあるし、気が向かなければカスパルは屋敷の蔵書を引っ張り出して「これなんて読むんだ?」などとリンハルトに訊ねてきた。
そうすればリンハルトが構ってくれることをカスパルは知っているのだ。そんなカスパルを邪険にしようと思えばできるのだが、不思議とそんな気分にはならなかった。
カスパルがいようがいまいが眠気は襲ってくる。カスパルが自室にいるときであってもリンハルトは構わずその場で寝ていたし、カスパルもそれを咎めたりはしなかった。
屋敷の使用人いわく、リンハルトが眠っているあいだカスパルは横に座ってじっと本を読んでいたり、部屋の隅っこのほうで図鑑を開いていたりするらしい。カスパルは、座学は苦手だが本を読むこと自体は嫌いではないようだった。
それが当たり前になったある日のことだ。机に向かったまま寝ていたリンハルトが目を覚ますと、中途半端に伸びた髪がいつの間にか後頭部で結ばれていた。
カスパルが結んだのだろうか? そんなことを思って振り返ったが、自室にいたはずのカスパルはいなくなっていた。
屋敷の者に訊ねたところ、ベルグリーズ家の使用人が迎えに来たので帰ったとの話だった。リンハルトの親はリンハルトに挨拶をさせようとしたが、カスパルは「起こしたら悪いから」と断ったらしい。
坊ちゃん、今日は髪を結んでるんですね。綺麗な紐ですね、似合いますよ――と、すれ違った使用人に言われて、リンハルトは初めて自分の髪を纏めている紐の存在に気がついた。
髪をほどいて手に取ってみると、それはなんの飾り気もない白い紐だった。手に乗せるとするりと抜けていきそうなほど滑らかな生地である。おそらく絹糸を使って織られているのだろう。
こんなものをつけていったのか……。
リンハルトの知る限り、カスパルはずっと短髪だ。そんな彼が自分の髪を結ぶための紐など持っているわけもない。だとすれば、衣服についていた装飾用の紐でも結びつけていったのだろうか?
そう思うと呆れながらもなんだかおかしくなって、知らず口元がほころんでいた。
翌朝から、リンハルトは自分で髪を結んだ。結んだ紐の長さが不揃いになってしまうことも多かったが、目立つものでもないので気にしなかった。使用人に頼めば綺麗に髪を梳いて結ってくれるのだろうが、毎日それをやるのかと思うと煩わしかった。
カスパルは似合うとも似合わないとも言わなかったが、「切っちまえよ」とも言わなくなった。
あれから十年ほど同じ髪紐を使い続けているけれど、上質な生地で織られたそれは未だに切れていない。
この紐の持ち主がカスパルだったという証左はどこにもないし、そうだとしてもカスパル本人はとっくの昔に忘れているのだろう。ただなんとなく捨ててしまうには惜しくて、いまも手元に置いている。
二人旅
フォドラ全土を巻き込んだ戦乱が終結してから半年あまり――リンハルトとカスパルの旅路は順調に進んでいた。
道中、魔獣や山賊などに襲われて戦闘になることはあったが、大抵はカスパルが殴り倒すので障害にはならなかった。リンハルトがやることと言えば、戦闘で怪我を負った者を白魔法で癒すくらいだ。
町から町へ移動する途中では野宿になることも多い。日が沈んだあとは、カスパルが集めてきた薪にリンハルトが魔術で火をつけて暖を取った。
「リンハルトがいると楽で助かるな」
「まあ、僕ができるのはこのくらいだしね」
「そんなことねえよ。食いもん探すのも楽だしな」
野宿中は、わずかな保存食と現地で調達した食材で腹を満たすことになる。
カスパルは鳥や野獣を捕獲し、リンハルトは魚や野草を採集した。釣りはもともと好きだし、図鑑を丸暗記しているので毒草とそうでないものの区別もつく。
「今日は何にする? また炒め物でいいか?」
「うん、それでいいよ」
食事を作るのは交代制にしていて、今日はカスパルの番だった。
旅に出てから、リンハルトはカスパルの意外な面をいろいろと知ることができた。料理もそのひとつだ。
士官学校にいた頃のカスパルは料理などまるきりできなかったはずなのに、知らぬ間にそれなりのものを作れるようになっていた。
「そりゃ、五年も一人で旅してりゃな」
カスパルは苦笑いしながら鍋の中に切った野菜を入れていく。
ガルグ=マクの戦いのあと、ベルグリーズ家と絶縁したカスパルは各地を放浪していたらしい。
士官学校時代は家族と手紙のやりとりをしていたようだが、絶縁後は当然ながら家族に連絡を寄越すこともなく、カスパルの所在をリンハルトが知る手段はなかった。
そのうち、カスパルはどこかの戦地で討死したのではないかという噂が帝国内で流れるようになっていた。
武芸で身を立てると豪語していたカスパルのことだ。どこかの国の傭兵として戦争に参加し、その挙句に死亡したという可能性は充分にあった。
それでも特に心配をしていなかったのは、カスパルが無事であるという確証があったわけではなく、確証のないことを危惧しても仕方がないというだけの理由だった。
約束の場所でカスパルの姿を目にしたとき、自分が安堵していることにリンハルトは少しだけ驚いた。自分はカスパルのことを少なからず心配していたのだなと、本人に再会してから気がついたのだ。
「最初は干し肉とかの保存食だけだったんだけど、そのうち自分で作るようになってさ。いまはけっこう自信があるぜ」
カスパルはてきぱきと手際よく調理を進めていく。
貴族という身分もあってそれまで料理とは縁遠い生活を送っていたのだろうが、もともとカスパルは手先が器用なほうだ。覚えようと思えば習得は早かったのだろう。
「ほら、できたぞ」
今日の夕食は根菜の煮物と焼いた川魚だった。
カスパルは魚が嫌いなはずだったが、放浪中は好き嫌いなどしていられなかったらしい。おかげでだいぶ食べられるようになった、というのは本人の弁だ。
「いただきます」
カスパルの作った料理を口に運ぶ。具材の切り方こそ雑ではあるが、味つけに関しては悪くない。少し辛味が強く感じるのはカスパルの好みが反映されているのだろう。
夜になると、二人は交代で見張りを行いつつ就寝した。
カスパルが眠っているあいだ、リンハルトは火の番をしながら周囲の警戒をする。なにか異変があればカスパルを起こしてそれを知らせ、二人揃って対処にあたった。
こんなめんどうなことを自ら進んでやるなんて、以前のリンハルトからは想像もできなかったことだ。カスパルの旅についていくと提案したときも、「野宿も多いぞ」「眠くてもその辺で寝たりできないからな?」と何度も念押しをされた。
リンハルトは傍らで眠るカスパルに視線を向ける。カスパルはよく眠っていた。ここ数日は移動続きだったので疲れているのかもしれない。
カスパルの頬にそっと触れる。規則正しい呼吸を繰り返しているのを確認してから、リンハルトはゆっくりと自分の顔を近づけていった。
「ん……」
唇が触れ合う寸前、カスパルが小さく身じろぎした。起こしてしまったかと思いリンハルトは慌てて体を離したが、カスパルはそのまま穏やかな眠りを続けている。
安心したような、残念なような複雑な気持ちになりながら、リンハルトはふたたび焚き火に視線を戻した。
気配に敏感なカスパルがこうまでして起きないのは、それだけリンハルトを信頼しているということだ。
寝ている隙に口付けをするのはその信頼を裏切るような行為に思えてきて、リンハルトは苦笑いをしながら火に薪をくべた。
あいのかたち
久しぶりに宿を取ることができたため、リンハルトは机の上に羊皮紙を広げて書き物をしていた。親友であり、家族のようでもあり、恋人のようでもある彼のことを記録に残しておこうと思ったのだ。
カスパルと旅をする日々は目まぐるしく過ぎ去っていった。彼がいなければ、自分はいまでもあの窮屈な屋敷で惰性のように生きていたのかもしれない。
「なに書いてんだ?」
寝台の上で横になっていたカスパルが興味深そうに羊皮紙を覗き込んでくる。
「日記だよ。旅先で起こった出来事や感じたことなんかをこうしてまとめておけば、あとあと役に立つと思ってね」
「ふーん……オレも読んでいいか?」
「いいけど、おもしろいものではないよ。ただの記録だからね」
リンハルトの許可を得たカスパルは羊皮紙を手に取って読み始めた。カスパルの水色の目が文字を追って左右に動き、ふっと止まってリンハルトのほうを向く。
「なんだよ、オレのことばっかじゃねえか」
何頁かに目を通したカスパルは不満げに口を尖らせる。端正な顔と幼い仕種の落差がおかしくて、リンハルトは思わず口元に笑みを浮かべていた。
「仕方ないだろう、旅先でなにかやらかすのは大抵カスパルなんだから」
「やらかすってなんだよ」
「山賊を追って崖から飛び降りたりとか、子供を助けるために急流を泳いで渡ろうとしたりとか、その辺のことだよ。もっと安全で堅実な対処法もあったはずなのに、君はいつも無茶ばっかりする」
「お前だってけっこう無茶なことするじゃねえか。ほら、前にあっただろ。オレが魔獣に襲われて大怪我をしたとき、魔法をぶつけて囮になっただろ」
「僕の場合はちゃんと考えてから無茶してるよ。あのときだってそれしか方法がないと考えたからそうしたまでさ」
「けっきょく無茶なんじゃねえか」
カスパルは大きく息をつくと、羊皮紙の束をリンハルトに押し付けた。
「まあでも、おかげで楽しい旅を送れてるのは事実だけどね。君と一緒にいると退屈しないし」
リンハルトは小さく笑い、羊皮紙を机に戻してふたたび筆を走らせる。
カスパルとの思い出を書き連ねる作業は楽しかった。戦争というしがらみもなくなり、彼の命が脅かされることに怯えなくてもよくなったいま、二人で過ごす時間は穏やかで幸せなものだった。
自分たちはこれでいいのだろう。リンハルトはそう思っていたはずなのに、その想いを揺るがしたのはカスパル本人だった。
「……なあ、リンハルト。お前もさ……オレとその……同衾したいとか思うのか?」
珍しく言い淀むカスパルの声を聞きながら、リンハルトは本に向けていた目線を上げる。夕餉を終え、宿でそれぞれの時間を過ごしていた矢先の発言だった。
リンハルトとカスパルはおそらく恋人同士と呼ばれる間柄だ。
おそらく――というのは、『恋人』という言葉の定義が何を指すかによるため、断言できないという意味である。
リンハルトとカスパルは挨拶のような気安さで口付けを交わすし、じゃれ合うようにして抱き締め合う。だが、性行為をするような関係ではなかった。
性行為をする間柄を『恋人』と呼ぶのならば、二人は恋人ではないことになる。だからと言って、『友人』と呼ぶには肉体的な距離が近すぎる気がした。
リンハルトは性欲が希薄なほうだがまったくないわけではない。若い体が疼くことは頻繁にあるし、それを愛しい相手にぶつけたいと要求してくる。
ただ、カスパルは他人に対して性欲を抱かない質であるし、それを奇異に思われることを煩わしく感じている節もあった。
そんなカスパルに性行為を要求する気は起きず、名前のわからない関係を続けている。
「同衾なら昔からよくしてるじゃないか」
「そういうんじゃなくてよ。わかってんだろ?」
もちろん、カスパルが何を訊ねているのかリンハルトはわかっていた。ただ、彼からそんな言葉が出てくるのが意外だったのだ。
もしカスパルがいまのリンハルトの立場だったなら、「同衾」という言葉の裏に隠された真意に気がつかないのではないだろうか。それほどにカスパルは色恋沙汰に疎いのだ。
「……思うよ。カスパルにもっと触れたいし、触れてほしいとも思う」
リンハルトが静かに本心を告げると、カスパルは戸惑うように視線を落とした。
「けど、カスパルがしたくないなら僕はそれでいいと思ってる。僕は、君とは君の望む関係であり続けたいんだよ」
リンハルトが体の関係を求めればカスパルは拒まないだろう。そのくらいカスパルに好かれている自覚はあった。
だが、カスパルがリンハルトとこれ以上の関係を望まないというのであれば、リンハルトもカスパルにそれを望むつもりはない。
「どうして急にそんなことを訊くんだい?」
「……オレも、こんなんだけど何人か女の子と付き合ったことあってさ……でも、いつもそこでうまくいかなくて長く続かなかった」
カスパルの言葉を聞いて、リンハルトは「ああ、やっぱりな」と得心した。カスパルは昔から女性にもてるのだ。
士官学校時代のカスパルはまだ少年らしさが抜けておらず、容姿端麗と言えるような部類ではなかった。
しかし、その人の良さや親しみやすいまっすぐな性格、誰に対しても分け隔てなく接する態度などが人を惹き付けたのだろう。
「恋人にしてくれって言われてさ、オレも相手のことは好きだったからいいって答えたんだけどよ……いざそういう場面になると、なんか違うなって思っちまって……うまくいかないんだよな」
カスパルは困ったような顔をしながら頭を掻いた。
カスパルが相手に好意を持っていたのは本当なのだろう。嫌っている相手と親しくできるほど器用な男ではない。だが、カスパルの求めていた関係と、相手の求めていた関係には大きな乖離があったのだ。
「リンハルトとは、うまくやっていきたいんだ。だから、リンハルトがオレとどうなりたいのか確かめたかった」
「……そう」
カスパルは、リンハルトとの関係を真面目に考えている。正直、その事実だけでリンハルトは嬉しかった。カスパルにとって、自分は特別な存在なのだという実感を得られたからだ。
「ねえ、カスパル」
リンハルトは寝台の縁に座っているカスパルの隣に腰掛ける。そして、カスパルの頬に触れてゆっくりと自分の方へ引き寄せた。カスパルはなにも言わずにされるがままになっている。
「口付けてもいいかい?」
カスパルの顔を見ながら尋ねると、彼は少しだけ目を泳がせてから小さくこくりと首を縦に振った。了承を得て、リンハルトはカスパルの肩に手を置いてそっと口付ける。
柔らかく温かい感触を確かめるように唇を食み、角度を変えて何度も口付けをした。舌先で唇に触れると、カスパルはおずおずといった様子で口を開き、リンハルトを受け入れる。
「んっ……ふぅ……」
鼻にかかった声を出しながら、カスパルはぎゅうっと強くリンハルトの服を掴む。息継ぎの仕方がわからなくて苦しいのかもしれない。
「カスパル、息を止めないで」
囁きながら、リンハルトはカスパルの背中をやんわりと撫でる。カスパルは一瞬身体を震わせたあと、恐る恐るというふうに少しずつ呼吸を再開した。
「カスパル」
名前を呼んで再び唇を重ねる。今度はカスパルのほうからも応えてくれた。最初は拙かった動きも次第に滑らかになり、リンハルトに合わせて懸命に応えようとしてくれる。
「……も、もう無理だ」
しばらくそうして口付けをしていたのだが、やがてカスパルが音を上げた。
カスパルは顔を上気させて苦しげに胸元を押さえている。慣れないことをしたから疲れてしまったのだろう。その初々しさが愛おしく、リンハルトは水色の髪を慈しむように手で梳いた。
「ごめんね。大丈夫?」
「おう……けど、なんつーか、すごいな、これ。頭がくらくらする」
「そうだね。僕もまだどきどきしているよ」
「お前がか?」
「ひどいな、僕だって好きな人に触れれば緊張することくらいあるよ」
冗談めかして言うカスパルにリンハルトも笑って答える。
「……お前はさ、オレが望むような関係でいたいって言ってくれたけど、オレもお前が望む関係でいたいと思ってるからさ。だから、その……どうしても我慢できないとかあったら、溜め込まずに言ってくれよ。できるだけ、応えたいと思ってる」
カスパルは照れ臭さをごまかすように早口に言った。
「ありがとう。僕は今すごく幸せだよ。こうしてずっと君と一緒にいられるんだからね」
カスパルの額に口付けを落とし、もう一度抱き締める。
この先、自分たちの関係がどのように変わっていくのかわからない。けれど、カスパルが自分を受け入れてくれる限りは、二人で一緒に歩いていけたらいいと思う。
腕の中の温もりを感じながら、リンハルトは静かにそんなことを考えていた。
メリセウス要塞にて
鎧の靴底が石造りの地面を蹴る音を聞きながら、リンハルトは大股で歩くカスパルの後ろについていく。
敵軍の次なる侵攻先はこのメリセウス要塞だろう。本来の主将であるベルグリーズ伯が遠征に赴いているいま、代理の主将として任命されたのは彼の次男であるカスパルだった。
メリセウス要塞の城壁の中には町がまるごとひとつ入っており、二人が子供の頃に世話になった住人たちが生活をしている。そういった人々への挨拶も兼ねて、カスパルは直々に要塞内の哨戒を行っていた。
「あら、そっちはリンくん? 大きくなったわねえ。二人とも男前になっちゃってまあ」
カスパルの数歩後ろを歩きながら欠伸を零していたリンハルトは、記憶よりいくらか皺の増えた修道士に話しかけられて「どうも」と軽く会釈をする。
いつの間にか、ほとんどの知り合いを見下ろすほど身長が伸びていたようだ。カスパルと一緒に挨拶をして回っているうちに、リンハルトは今さらその事実に気がついた。
「メリセウス要塞が戦場になるなんてなあ」
「まあ、要塞だからね。本来はそういう用途の場所だよ」
近道として使っている裏路地を並んで歩きながら、二人はとりとめもない会話を交わす。
「しっかし、意外だったぜ。お前がこんな激戦区の戦闘に参加するなんてな」
「……敵軍が帝都まで侵攻してきたら、どちらにせよ僕も戦うことになるだろうしね。遅いか早いかの違いだよ」
こうやって二人で散歩や雑談をできるのも、これが最後かもしれない。
子供の頃に見つけた道を歩いているせいかどうにも感傷的になってしまい、リンハルトは隣に並ぶ幼なじみの横顔に視線を向けた。
「ねえ、口付けしようか」
「はあ?」
ふいに足を止めて提案すると、カスパルは間の抜けた返事をする。
「嫌なの?」
「嫌じゃねえけど」
嫌じゃないんだ……とは思ったものの、リンハルトはつっこまなかった。
「そういうのは戦が終わったあとにしろよ。いまだとなんか……死ぬ前にやっとこうみたいな感じになるじゃねえか」
――そのつもりだったんだけど。
リンハルトは言いかけたその言葉を飲み込んだ。
この先も二人で一緒に生きていけるならそれが一番いいとは思う。でも、きっとそれは叶わない。そう断言できる程度には、リンハルトはカスパルの性格を理解していた。
だから、せめて最期のときくらいは君と同じ時間を過ごしたかったんだ。
……そんなことは口に出せるはずもなく、ただ黙って微笑むことしかできなかった。
「わかったよ、じゃあこの戦いが終わってからやろう」
「ああ。首洗って待ってろよ」
「それはこういうときに使う言葉じゃないと思うけど」
リンハルトは呆れながらもまた笑い、それから再び歩みを進める。
敵軍の旗印が南の空に見えたのは、それから数日後のことだった。
カスパルの看病をするリンハルト
エーデルガルトに引き摺られるようにして教室に足を踏み入れたリンハルトは、見慣れた水色の髪が見当たらないことに気づいて首を傾げた。
時間を厳守するカスパルが、寝坊常習犯のリンハルトよりも遅く来ることはまずないと言える。となれば、なんらかの理由で欠席をしたのだろう。
「……カスパルは来てないんだ? 珍しいね」
「体調が悪いので今日は休むと言っていましたね。朝一番に私の部屋を訪れたので何かと思えば……」
誰にともなくつぶやいたその言葉に反応を示したのは、隣席に座っているヒューベルトだった。
普段であれば、カスパルがヒューベルトに個人的な用事をもちかけることはほばないが、今回は隣室だったために伝言役を頼んだのだろう。
カスパルがいない教室は少し静かだった。カスパルがいなくともフェルディナントやベルナデッタが騒がしいので、騒がしいことには変わりないのだが――まあ多少は静かと言える。
午前の授業を終えて昼食を済ませたリンハルトは、食堂でシチューを貰ってからカスパルの部屋に向かった。学生寮には調理設備などないし、おそらくは何も食べていないのだろう。
「カスパル、入るよ」
学生寮の二階へと赴き、声をかけてから扉を開ける。
リンハルトの予想通りカスパルは寝台に横になっていたが、眠ってはいなかったようですぐに体を起こした。
「なんだ、リンハルトか」
「なんだじゃないでしょ。昼食は食べたの?」
「まだ食ってねえ。熱があるのに食堂に行くわけにもいかねえし……」
リンハルトは寝台の傍の椅子に座ると、持ってきたシチューを机に置いてカスパルの額に手を当てる。カスパルはもともと体温が高いほうなのだが、確かに普段よりも熱いように感じた。
「君が熱を出すなんて珍しいね」
「ああ、しくじったぜ……オレの体調管理がなってなかったせいだ。くそ、このぶんじゃ今日の鍛錬はできねえよな」
「そうだろうね。まあ、数日休んで体調を整えたらまたすればいいよ」
リンハルトの言葉にカスパルはあからさまに落胆した表情を見せる。
ベルグリーズ流の鍛錬は、訓練を積んでいる兵士でも音を上げるほどの厳しさで有名だ。リンハルトからすればあれを毎日やるほうがよっぽどつらいが、カスパルはそうではないらしい。
「君の場合、むしろ休むのにいい機会なんじゃない? どれだけ体を鍛えたって、体調を崩したら本末転倒でしょ」
「それはそうだけどよ……」
「ああ、そうだ。これ食堂で貰ってきたんだ。食欲があるなら食べるといいよ」
リンハルトは持ってきたシチューを匙で掬ってカスパルの口元へと運んだ。カスパルは「自分で食べられるって」と拒もうとしたが、リンハルトが匙を離す気がないのを見ると観念して口を開ける。
「……うめえ」
「そう。よかったね」
多少なりとも食欲はあるようで、カスパルはリンハルトから与えられるシチューを大人しく嚥下していく。
カスパルに自分で食べさせれば、おそらくは流し込むようにして食べるのだろう。だが、いまは胃腸に負担をかけないためにゆっくり時間をかけて食べさせる必要があった。
「ごちそうさま」
「どういたしまして……っと」
リンハルトは匙を置いて立ち上がり、カスパルの寝台に潜り込む。二人で眠るには狭い寝台だが、カスパルが小柄なのをいいことに強引に割り込んだ。
「おい、リンハルト?」
「僕も一緒に寝ようかなって」
「いや、駄目だろ。午後の授業受けてこいって」
当然のような顔をするリンハルトにカスパルは困惑するが、リンハルトは気にせず毛布を引き寄せて自身の体をくるむ。
「休むよ。君が寝付くまでここにいる。授業の内容は学級の誰かに帳面だけ見せてもらえばわかるし」
「それだと相手に迷惑だろ」
「いいから寝るよ。おやすみ」
カスパルの言葉を遮って目を閉じると、しばらくしてから小さなため息が聞こえた。どうやら諦めてくれたらしい。
カスパル一人では室内で軽運動でも始めかねないが、こうして見張っている人間がいれば大人しく横になっていてくれるだろう。
それからほどなくして、カスパルは寝息を立て始めた。リンハルトは眠る幼なじみの横顔を眺めながら、規則正しい寝息に耳を澄ませる。
ただそれだけのことにひどく安堵してしまう自分の過保護さに呆れながら、リンハルトもまたまどろみの淵に落ちていった。
釣りをするカスパルとリンハルト
水面に浮かんだ浮きが、僅かな波に揺られてぷかぷかと揺蕩う。
ガルグ=マク大聖堂の釣り堀に糸を垂らしていたリンハルトは、何度目かわからない欠伸をこぼした。
魚を待つ時間は嫌いではなかった。釣果など期待していないが、釣れても釣れなくても、ぼんやり過ごす時間というのは心地がいいものだ。
……そう感じるのはリンハルトだけらしく、横で暇を持て余していたカスパルは早々に音を上げて屈伸運動を始めてしまったが。
「……もう、カスパルが動くから魚が逃げちゃったじゃないか」
蜘蛛の子を散らすように去って行った魚たちを眺めながらリンハルトは嘆息する。
多動傾向にあるカスパルはじっとしていることが極端に苦手だ。授業中は義務だと思って我慢しているのだろうが、趣味の場となると耐え難いらしい。
「んなこと言ってもよ、何もせずぼーっとしてて何が楽しいんだ? ただ待ってるだけならそのあいだに鍛錬でもしたほうがよっぽど実になるだろ」
「ただぼーっとしてるわけじゃないよ。魚との駆け引きを楽しんでいるんだ」
「駆け引きだあ?」
「そう。女の子と同じだね」
言いながら、リンハルトは釣り竿を軽く揺らした。魚が餌に食いついた気配があったのだが、どうやら針ごと持っていかれたらしい。
「例えがわかんねえよ。女を魚だと思ったこともねえし……」
「まあ、君はどっちかと言うと魚のほうだよね。動き続けてないと死んでしまう種類の」
リンハルトは針を付け直してふたたび水面に糸を垂らした。撒き餌につられた魚を誘うように小刻みに竿を揺らすと、水面が波打って小さな水飛沫が上がる。
「釣りって、魚との駆け引きなんだよね。この魚は何を考えてるのとか、糸を緩めたらどういう反応をするのかとか、糸の先からそういう細かい情報が伝わってくるんだよ」
「へえ……要するに、魚の気持ちを読み取るってことか?」
「そういうことかな。この魚はお腹が減ってるとか、警戒してるのかとか、今日は機嫌が良さそうだとかね」
「ふーん……そういうもんなのか」
カスパルは手持ち無沙汰に自分の釣り竿を揺らしてみたが、当然ながら魚が食いつく気配はない。
「ほら、僕の餌につられて魚が寄ってきたでしょ」
「おおっ、本当じゃねえか!」
カスパルは目を丸くしてリンハルトが掲げた竿の先を眺めた。水面で銀色の鱗がひらめき、飛沫が上がって水紋が幾重にも広がる。
「ここでがっついたら駄目だから、慎重にね」
リンハルトは竿を揺らしながら、緩急をつけて糸を巻き上げる。やがて魚影が大きくなったかと思うと、水面から魚が姿を現した。
「おお! 釣れたぜ!」
カスパルの歓声に呼応するように、糸の先では大きな魚がびちびちと身を躍らせている。
「まずは一匹目。やっぱり釣れると嬉しいね」
リンハルトは魚を釣り上げて地面に落とすと、手早く針から魚を引き離した。
「よくわかんねえけど、なんかすげえな! やっぱリンハルトはすげえよ!」
「そんなにすごいものでもないけど……」
魚を籠に放り込むリンハルトを見て、カスパルは興奮気味に身を乗り出す。
「いや、すげえって! オレ魚が餌に食いついたことすらねえし……あんなに警戒心が強いやつらを釣れるなんてすげえよ!」
「それは君が騒ぐから……ああ、ほら。また逃げちゃった」
再び桟橋から離れていく魚を見ながらリンハルトは嘆息する。
「まあいいか、今日は天気もいいし……このままのんびり昼寝するのも悪くないかもね」
リンハルトは竿を無造作に地面に放り、欠伸をひとつして横になった。
「おい、こんなところで寝るなリンハルト!」
「少し寝たら起きるから、カスパルも自由にしてていいよ」
「いや、寝るなら部屋に戻れよ!」
カスパルはリンハルトの袖を引いて起き上がらせようとしたが、リンハルトは頑なに寝転んで動かない。
「ふあ……眠くてもう一歩も歩けないや。おやすみ」
「ったく、しょうがねえな……」
カスパルはしぶしぶ諦めたように肩を竦めた。
瞼を閉じたリンハルトはすぐに寝息を立て始める。
カスパルはリンハルトの隣に腰を下ろし、釣り針を適当に垂らしながら水面を眺めた。しばらく待っていても水紋が輪のように広がるばかりで、魚が食いつく様子はない。
――さて、どうするか。
釣りをしていた本人が眠ってしまっため、取り残されたカスパルはどうすべきか少し考え込んだ。
このまま釣りを続けても釣果が上がるとは思えないし、だからといってリンハルトを放置して鍛錬に勤しむのもなんだか悪い気がする。
リンハルトの部屋は釣り堀からそう離れていない場所にあるため、そこまで運んでやる手もあった。だが、自分より十八センチも身の丈がある相手を担いで運ぶのはさすがに骨が折れる。
そんなことを考えているうちに太陽の位置は高くなり、水面の眩しさが増すにつれてカスパルの目蓋も重くなってきた。
――まあいいか。
だんだん考えること自体がめんどうになってきたカスパルは欠伸をしてリンハルトの横に寝転ぶと、自分も目を閉じて眠りに落ちた。
甘いひととき
甘い香りに誘われて厨房に足を踏み入れると、こんがりと焼き色がついた菓子が卓上に置かれていた。焼きたてならではの柔らかな香りが鼻腔を擽り、リンハルトは思わず顔を綻ばせる。
こんなに美味しそうなお菓子を目の前にすれば、口にしたくなるのが甘党の心情というものだ。だが、誰のものとも知れないお菓子に勝手に手をつけるわけにもいかない。
「あ、リンハルトか。それ、食っていいぞ」
リンハルトがお菓子を見つめながらそんなことを思案していると、厨房の奥から明らかに場にそぐわない人物が顔を出した。カスパルである。
珍しく料理でもしていたのか、カスパルは身軽な衣服の上に前掛けを身につけていた。おそらくは狩りに行って、捕獲した鹿なり猪なりを捌いていたのだろう。リンハルトはそう判断した。
「ふうん。なら、ありがたくいただくよ」
リンハルトは焼き菓子をひとつつまみ上げて口に運んだ。
しっかりと焼き上げられた生地の歯ごたえとともに、濃厚な牛酪の風味が口の中いっぱいに広がる。生地に木の実が練り込んであるのだろう、香ばしい風味と特有の食感がまた心地よい。
リンハルトはしばらくの間、口の中に広がる甘さと、鼻腔を擽る芳香をじっくりと堪能した。
戦場では甘味は贅沢品ということもあり、滅多に口にすることはできない。その反動もあってか、リンハルトはひとつだけでは飽き足らず、ふたつ、みっつと菓子を口へと運んでいった。
「美味しいなあ……カスパル、これすごく美味しいよ。甘さも焼き加減も絶妙だね」
「おう、そうか! お前にそう言ってもらえると嬉しいぜ」
リンハルトの素直な賞賛に、カスパルはなぜか得意げな顔を浮かべる。
「うん、帝都の職人に貰ったお菓子くらいおいしいよ。これ、誰が作ったの? ベルナデッタ? メルセデス? ああ、シェズもこういうの得意だったね」
リンハルトは知る限りの料理上手な知人の名前を列挙していく。
しかし、カスパルは首を横に振ってそれを否定した。
「いや、オレが作ったもんだけど」
「え?」
リンハルトは思わず問い返す。
カスパルは料理は不得意だったはずだ。力加減が苦手なのか調理器具をよく壊すし、味付けも大雑把で全体的に雑だった。それが、いつの間にこれだけ上達したのだろう。
「驚いたな。君は料理は不得意なものだと思ってたよ」
「まあ、確かに苦手だけどよ。菓子作りはまだやりやすいっつうか……」
適切な言葉が見当たらないのか、カスパルはしばらく悩んだあと言葉を続けた。
「ほら、料理って調理法を読んでも『大さじ一杯』とか『適量』とか曖昧なことばかり書いてあるだろ? あれが意味わからなくて変な味になっちまうんだよな。でも、菓子の調理法って具体的にどんだけ入れろって書いてあって、その通りに作れば美味くできるじゃねえか」
「なるほど……確かに、主食の調理には勘や経験則も必要になると聞くね」
リンハルトも料理に関しては詳しくないが、カスパルが言いたいことは理解できた。
例えば、煮物などを作る場合は『塩をひとつまみ加える』だとか、『煮立たせてから肉を入れる』といった、調理者の匙加減が要求される過程が多い。そのぶん、多少は分量や調理時間にずれが生じても食べれられるものにはなる。
逆に、菓子作りの場合は添加物に具体的な数値が定められてり、それを少しでも誤れば生地が膨らまないなど致命的な失敗に繋がる。カスパルが料理よりも菓子のほうが作りやすいというのは、その辺の違いによるものなのだろう。
「イエリッツァ先生との勝負のために、メルセデスに教わって作ってたんだ。けどよ、オレは別に先生の舌を唸らせたいわけじゃねえし、上手くなったところでどうしようもねえし……でも、お前が美味しいって言ってくれるんなら上手くなった甲斐があったな」
「うん、すごいと思うよ。調理法通りに作ると言っても、それができない人だって多いんだ。それに、お菓子作りだって仕上げや装丁には調理者の感性が必要とされるはずだよ」
リンハルトは素直に感嘆の言葉を漏らした。
メルセデスが黒鷲遊撃隊に加わったのはほんの数節前だ。つまり、カスパルはその短期間でここまでの技術を習得したということになる。それは並大抵の努力ではなしえないことだろう。
「へへっ、ありがとな。でも、リンハルトのおかげでもあるんだぜ」
「僕が? どうして?」
「お前、菓子とか好きじゃねえか。だから作るときに、お前だったらどういうので喜ぶかって考えながら作ってたんだ。菓子の仕上げは小細工みたいなもんだし、オレはそういうの苦手だけどよ……好きなやつに食わせるものくらいは手を抜きたくねえからな」
なんでもないような口振りのカスパルを前にして、リンハルトは思わず頰が熱くなるのを感じた。
よくよく考えれば、この生地に練り込まれている木の実はリンハルトの好物だ。カスパル自身は甘いものを好むほうではないのに、リンハルトの嗜好は把握していたらしい。
その事実に嬉しくなると同時に、なぜか気恥ずかしさが込み上げてしまい、リンハルトはそれを隠すように「そっか、嬉しいな」と努めて淡々とした返事をした。
約束というわけではないけれど
朝靄が立ち込める中、リンハルトは古びた教会の扉を開く。
豪奢な装飾が施された教会は、かつては人々が訪れて賑わったであろう面影を残している。鮮やかな色硝子から差し込んだ陽光が、床に淡く散らばって模様を描いていた。
傾いた屋根は崩れかけており、崩れ落ちた壁や剥がれ落ちた天井の破片が床に散乱している。黴と埃の臭いが入り混じった空気が、鼻を通して喉に絡みつくようだった。
「……ここにも人はいないみたいだな」
「戦乱の折に村ごとどこかに避難して、そのまま忘れられたのかもしれないね」
きょろきょろと周囲を見回すカスパルに、リンハルトは淡々とした口調で返す。
旅の最中にこの廃村へ訪れた二人は、一夜の宿を探してあちこちを散策していたのだが――どうやら、住人は一人も残っていないようだった。
「誰もいないなら勝手に泊まらせてもらおうか。ちょっと風通しがよすぎるけど屋根はあるし」
リンハルトは古びた椅子の上に積もっていた埃を軽く払うと、荷物を置いてそこに腰をかけた。
橙色を帯びた日差しが天窓から差し込み、空気中の塵を照らし出す。薄暗い堂内に漂う塵が光の筋の中で浮遊する様子は、まるで夢の中にでも迷い込んでしまったかのような光景だった。
「……悪くはないねえ」
「何がだ?」
値踏みするような物言いのリンハルトにカスパルは首を傾げる。
「廃墟って、面白いよね。雰囲気が独特で」
リンハルトは教壇の向こうにある色硝子を見上げて目を細める。
かつては人々が行き交っていたであろう聖堂は、今は沈黙を守っていた。
柱も椅子も絨毯もすべてが古びて形を失いつつあるが、かろうじてかつての荘厳さを感じられる程度の形を保っている。朽ちかけた建造物特有の陰鬱さもありながら、同時に静寂に包まれた厳かな雰囲気も感じられた。
「遺跡とか好きだもんな、お前」
「遺跡と廃墟は違うと思うけど……まあいいや」
リンハルトは軽く肩を竦めたのちに、荷物の中から小さな箱を取り出す。掌に乗る程度の大きさをした、飾り気のない簡素な箱だ。
「これを渡すにはちょうどいい雰囲気かと思ってね」
リンハルトは掌に乗せた箱の蓋を開けてカスパルに中を見せる。
そこには精巧な細工が施された銀製の指輪が入っていた。リンハルトが嵌めるにしては大きいそれは、誰か特定の人物に渡すために誂えたものだということがすぐにわかる。
「指輪?」
カスパルは興味深そうに指輪を覗き込む。
リンハルトはそっとカスパルの手を取り、その薬指に先程の指輪を通した。節くれだった指には少し不釣り合いなそれは、カスパルの指の上で繊細な光を放っている。
「君にあげるよ」
ぽかんとした表情を浮かべているカスパルを尻目に、リンハルトは満足気にその指輪を指先で撫でた。
「君はあまり形式ばったのは好まないかなと思ったんだけど、でもこういうのはきちんとした所で渡したかったから……だから、『悪くはない』って思ったんだ」
リンハルトはそっとカスパルに顔を寄せる。唇が触れ合う瞬間カスパルの肩が小さく揺れたが、リンハルトは構わずに口付けた。
「……あー……えっと、つまり、そういう意味ってことか……?」
触れるだけの口づけを終えて離れると、カスパルは照れくさそうに視線を逸らす。そして、自分の指に嵌められた指輪をまじまじと眺めては瞬きを繰り返した。
「うん。君が好きだよ。ずっと僕の傍にいてくれないかな?」
「改めて言われるとなんか恥ずかしいな……」
カスパルは頰を掻きながら目を伏せる。
今まで何度も好意を伝えて合ってきたが、こうして改めて言葉にされると気恥ずかしいものがあるようだ。聞き慣れた「好きだよ」という言葉も、不思議と特別な響きを持って聞こえるのだろう。
カスパルは指輪の嵌まった自身の手と、リンハルトの顔を交互に見つめたあと大きく息を吐き出す。それから照れ臭そうに頬を緩め、はにかみながら口を開いた。
「オレもお前と一緒にいたいと思ってるよ。だから……その、これからもよろしく頼む」
カスパルはリンハルトの頰に軽く口付けて再び視線を彷徨わせたのちに、リンハルトの肩にぽすっと頭を預ける。
甘え方をあまり知らない不器用な恋人が愛おしくて、リンハルトはその背中にそっと手を回した。
旅立ちの日に
フォドラ統一戦争が終結し、『闇に蠢くもの』との戦いを終えた帝国軍の将兵たちは、それぞれの未来を歩むべく新たな道へと踏み出そうとしていた。
エーデルガルトから役職を与えられたもの、親から爵位や領地を引き継いだもの、町や村の復興に尽力するもの、その最中で愛しい相手と婚姻関係を結ぶもの……。
慌ただしく足を踏み出そうとする彼らの中にあって、リンハルトはひとり、未だ平時と変わらぬ生活を送っていた。
差し当たってやらなければならないことといえば、家督の相続と領地の引き継ぎに関して父と話し合うことくらいだが――そんなことよりも紋章の研究のほうがリンハルトにとってはよほど重要な事柄だ。
戦の最中に他国で発見した遺跡の調査も進めたいし、各国に保管されている紋章学についての文献や資料にも興味がある。リンハルトとしては、家督に煩わされることなく研究に没頭したいというのが正直な気持ちだった。
「リンハルト! ここにいたのか」
士官学校の庭園でまどろんでいたリンハルトは、聞き馴染んだ幼なじみの声に顔を上げた。
前線部隊を率いる将であるカスパルは、戦争が集結したあとも多忙を極めているようだった。山賊と化した敗残兵の討伐や、混乱に乗じた反乱分子の鎮圧、それに加えて調練も行っているのだというのだから感心せざるを得ない。
「家督を継ぐのを嫌がって家に戻ってないんだって? お前の親父さんが愚痴ってたって親父が言ってたぜ」
カスパルはそう言いながらリンハルトの向かいの席に腰を下ろす。
リンハルトがヘヴリング邸に戻らずガルグ=マクに住み着いているのは、カスパルの言う通り家督の相続問題が理由のひとつだった。ここに住むのであれば紋章学の講師にならないかという話ももちかけられたが、それも気が進まず断ったのが先日の話だ。
「まあね。カスパルこそ軍務卿の打診を蹴ったんだって?」
「なんだ、リンハルトも聞いてたのか」
カスパルはリンハルトが持参した茶菓子を摘みながら話を続ける。
「戦後の処理が落ち着いたら旅に出ようかと思ってよ。ファーガスやレスターだけじゃなくて、ブリギッドとか、ダグザとか、いろいろ行ってみたいんだよな。だから、その話は断ったんだ」
カスパルが旅に興味を持っていることはリンハルトも知っていた。戦争が起こらなければ、あるいはカスパルがエーデルガルトと共に歩む道を選ばなかったのであれば、いまごろ彼はふらりとどこかを放浪していたのかもしれない。
「家を継がないってんならお前も一緒に来るか? 旅の話とか好きだろ」
「そうだね。興味はあるよ。でも……」
カスパルの誘いにリンハルトは頷く。
他国を訪れて見聞を広めることは、紋章の研究という観点から見ても有益であるように思えた。紋章の歴史はその国や土地とも密接に関わっているし、フォドラの外を見ることによって得られる知識もあるだろう。
だが、リンハルトにはひとつだけカスパルに伝えておかなければならないことがあった。
「僕、カスパルのことが好きなんだよね。親友としてももちろんだけど、それだけじゃない。抱き締めたり、口付けをしたり、それ以上のこともしたいと思ってる」
「……ん? おう……? なんだよ急に?」
唐突にも思えるンハルトの言葉にカスパルは首を傾げる。
「君と二人で旅をするのなら、あらかじめ言っておいたほうがいいと思って。旅に出てから君のことをそんな目で見ているだなんて言ったら、後出しみたいで卑怯じゃないかな」
カスパルはしばらく虚を衝かれたような表情を見せていたが、リンハルトがそう説明すると意図を察してくれたらしく、今度は納得したような表情を浮かべた。
「まあ確かに、一緒に旅をしてる相棒にそういう目で見られてたなんて後で知ったら気まずいだろうけどよ」
「そうだよね。だから、ちゃんと伝えておこうと思ったんだ」
リンハルトは机の上に無造作に置かれていたカスパルの手に自分の手を重ねる。拒絶はされなかった。それに内心で安堵しながら、リンハルトは言葉を続ける。
「君が嫌だっていうなら、僕は君の旅には同行しない。でも、もし君が僕の言葉の意味をきちんと考えてくれて、そのうえで受け入れてくれるなら……どこにだって一緒に行くつもりだよ」
「きちんと考えて……か」
カスパルはリンハルトの言葉を反芻するように繰り返す。
色恋沙汰に対する興味が希薄なカスパルが、リンハルトの意図をどこまで汲み取ってくれるかは怪しいところではある。
リンハルトの好意を受け入れるということがどういうことか――それをカスパル自身が考えてくれることが今のリンハルトの望みだった。
「まあ、考えておいてよ」
「……おう。すぐに返事していい話でもなさそうだしな」
いつになく神妙なカスパルの返事にリンハルトは微笑む。
今はこれでいいだろう。結論を急ぐ必要はない。カスパルがリンハルトの言葉を真摯に受け止め、「きちんと考える」という段取りを踏んでくれたこと――今はそれだけでも充分な成果だ。
リンハルトがもっとも危惧していたのは、カスパルがリンハルトの言葉の意味を咀嚼しないまま「オレも好きだぜ! じゃあ出発するか!」などと結論を出してしまうことだった。
もしそのような反応をされたのであれば、リンハルトは多少なりとも傷付いていたかもしれない。それは、リンハルトの切なる告白をカスパルが聞き流してしまったということにほかならないからだ。
カスパルがきちんと考え、その上でリンハルトを受け入れてくれたのであれば――そのときは、自分の抱えた想いを余すことなく言葉と全身で伝えること にしよう。
リンハルトはそう決意し、カスパルの手から伝わる体温を感じながら静かに目を閉じた。