劫火の果て
アンヴァルへ
炎の纏う熱気が重くのしかかる戦場で、リンハルトは白き竜の咆哮を耳にした。
それを皮切りに戦場からは徐々に大隊の鬨や小競り合いの残響が消えていき、兵士たちの口から「戦争が終わった」という報せが飛び交うようになったのである。
凱歌を挙げる者、項垂れる者――各軍が混在する戦場にはさまざまな感情が渦巻いていたが、なによりも見受けられたのは安堵の表情だった。
――終わったのか。
それを認識した途端、リンハルトは猛烈な睡魔に見舞われてその場へと昏倒した。
薄らいでいく意識の中、副官が慌てた様子で駆け寄ってくるのを感じたが、リンハルトの瞼は重く、もはや開くことも叶わなかった。
***
その数週間前――
「天馬騎士の数が少ないですね。どこかに伏兵がいると思って間違いないでしょう」
斥候が収集してきた情報と地図を比較しながら、ヒューベルトは淡々と戦況を分析する。
タルティーン平原で王国軍を打ち破った帝国軍は、勢いそのままに王都フェルディアへと兵を進めていた。撤退を与儀なくされたセイロス教会軍は宮城に立て篭り、王国軍の残党と共に帝国軍を迎え撃つ構えを見せている。
王国軍は寡兵であり、帝国軍との戦力差は歴然だった。だが、教主レアが率いるセイロス教会軍には『雷霆』のカトリーヌが名を連ねている。正面から戦えば帝国軍にも甚大な被害が出ることは避けられない。
「天馬騎士が伏せているのは西と東だ。城下町の外郭に隠れてこちらが城内に入り込むのを狙っている。それから、王国軍の分隊が本陣の後方から援軍として来るだろう。戦力は分散させず、魔道部隊は歩兵部隊と共に進軍したほうがいい」
「……貴方はいつも見てきたように言うんですね。まあ、先生が言うなら間違いはないんでしょうけど」
断定的なべレトの口調にリンハルトは肩を竦めつつ、持参した地図に進軍先の印をつけてゆく。
「定石通りなら鋸壁の向こうには弓兵部隊がいるはずね。師、こちらはどう対処する?」
エーデルガルトは見取り図の鋸壁を指で示しながらべレトに訊ねる。
「飛竜部隊を先行させよう。ペトラ、任せていいか?」
「はい。急襲、得意です。皆の道、切り開きます」
「リンハルトとドロテアの部隊は魔法で上空の援護をしてくれ。自分は地上部隊の進軍に注力しよう」
「ええ、わかりました」
「めんどうですけど、仕方ないですね」
闊達と返すペトラやドロテアとは裏腹に、リンハルトは間延びした口調で了承する。
タルティーン平原での戦闘は兵力で勝る帝国軍が勝利を得ることができた。しかし、守る側が圧倒的に有利となる攻城戦となれば帝国軍の被害も甚大となるだろう。
双方の軍の将兵が大勢死ぬだろうし、民衆にも被害が出る可能性がある。例え勝利を得たとしても、深い瑕疵を残すことは間違いない。
――戦争は嫌だな。
リンハルトの本音はそれである。
戦争は人が死ぬ。人が死ねば、その家族や友人が悲しむことになる。そして、そこからまた新たな悲しみが生まれるのだ。だから、戦争は嫌いだ。
しかし、戦争を終わらせるためには戦わなければならないことも理解はしているし、自分の得意とする魔法が戦争の終結をいくばくか早めることも理解している。
それに――
「なあ先生、オレはどうすりゃいいんだ?」
それまでべレトの指示を頷きながら聞いていたカスパルが、待ちあぐねたように口を開く。
カスパルは先のタルティーン平原の戦いにおいて、魔獣と化した王国兵達の掃討にあたっていた。窮鼠猫を噛む――とでも言うべきか、追い詰められた王国軍は将兵らに紋章石を配り、魔獣と化して帝国軍を迎え撃ったのだ。
「カスパルとエーデルガルトの部隊は先鋒だ。城門の守備兵を掃討したあとは、中央の進路は避けて西から迂回して攻め込んでくれ」
「おう、わかったぜ! 先鋒は任せておけ!」
「……皇帝に先鋒をさせる人なんて、貴方くらいのものでしょうね」
威勢のいいカスパルとは正反対に、エーデルガルトは呆れたような言葉で返す。しかしその表情には笑みが浮かんでおり、ベレトの指示を予測していたような様子だった。
「カスパル、くれぐれも突出しすぎようにね。追い詰められた者の行動は予想がつかないから」
「わかってるよ、エーデルガルト!」
エーデルガルトの忠告にカスパルは笑顔で応える。
「……本当にちゃんとわかってるかい? この前みたいに大怪我をした君の治療をするのは嫌だからね。ああ、思い出しただけで吐き気が……」
「だーっ! またその話かよ!」
リンハルトはわざとらしく口元に手を当ててみせる。
この前――というのはタルティーン平原の戦いのことだ。無尽蔵に湧く魔獣との交戦でカスパルは深手を負い、リンハルトが待機している拠点まで後退してきたときには左腕を開放骨折していたのである。
適切な応急処置を受けていたのもあり命に関わるほどの重症でなかったが、あのときの挫創と出血量を思い出すとリンハルトはいまでも本当に目眩がしてしまう。
「オレだってちゃんとわかってるよ! 一緒に生き残ろうって約束させたのお前だろ?」
「……うん、そうだね」
カスパルの素直な返答にリンハルトはわずかに目を見開き、それからいつものように短く返事をした。
この勇ましくも無鉄砲な幼なじみが常に前線で命を賭して戦っているのだと思うと、リンハルトは不安と恐怖で胸が張り裂けそうになる。
その想いは、かつてリンハルトがよく擦り傷を作ってくるカスパルを見て、治癒魔法を習得しようと決意した頃と変わらなかった。
リンハルトはカスパルが傷つくところを見たくないし、できるなら危険な戦場になど出てほしくはない。だが、彼が生きる方法として選んだ道を否定することもできなかった。
だから、カスパルが怪我をしても治せるように、知恵が必要ならば貸せるように、彼の傍についていることにしたのだ。
――リンハルトはカスパルが好きだ。
その思いが恋慕の情だと自覚したのはいつだったか。
だからこそ、その命が失われることが怖い。
戦争も嫌いだし、人の死を見るのも嫌いだ。だが、それでもなおリンハルトはカスパルと共に戦いたいとも思う。
彼の傷を癒せる人間が一人増えること、帝国軍にとっての戦力が一人増えること――それがカスパルの生存率を上げ、終戦を早めるために効率のよい手段だからだ。
だから自分はここにいる。カスパルと共に戦えるように。この戦争の先に、彼と共に歩む未来を見いだせるように。
リンハルトは自分の心にそう言い聞かせると、ベレトの指示を再度確認するため戦場図に向き直った。
「ヒューベルトの部隊はエーデルガルトとカスパルの部隊を援護してくれ。王国軍は騎兵が多く機動力が高い。魔法で敵の進軍を足止めして部隊を分断させてほしい」
「わかりました」
ヒューベルトは恭しく頭を垂れて了承の意を示す。
「フェルディナントは騎馬部隊を率いて、城外から来る援軍を迎え討つと共に敵の補給路を断ってくれ。王国軍は本隊と分隊でこちらを挟撃するつもりでいる」
「斥候の情報によれば分隊の数はそう多くはないようだが……それなら私もエーデルガルト達と共に進軍したほうがいいのでは?」
「いや、その情報よりも多くの援軍がフェルディアに向かっているはずだ。斥候が天馬騎士の数を把握しきれていないんだろう」
「……なるほど、了解した」
断定的な口調のベレトにフェルディナントはそれ以上の疑問を挟むことなく頷いた。
驚くべきことに、ベレトの判断に壊滅的な誤りがあったことはこれまで一度もない。いつかヒューベルトが口にしていたように、彼は本当に未来を予知する力があるのではないかとリンハルトは思うことがある。
「ヒューベルト、そちらの手筈はいい?」
「つつがなく。既に工兵を川の上流に向かわせています」
エーデルガルトの問いにヒューベルトは深く頭を下げて答えた。
「川の上流……? あっ、水路か!」
「なるほど、上流に堤を築いて川を堰き止めるのだな」
カスパルが声を上げると、フェルディナントも合点がいったように言葉を添えた。
「そんなのベルは聞いてませんよ⁉ ベルだけ除け者ですかぁ⁉」
「敵に情報が漏洩しては工作は成り立ちませんからね。一部の将だけで内密に進めていたのです」
「あ……じゃあ知らなかったのはベルだけじゃないんですね」
抗議をするベルナデッタだったが、ヒューベルトの返答を聞いて即座に胸を撫で下ろす。
「敵が籠城するのであれば兵糧を経つのが上策。王国軍もそのくらいの策は見抜くだろうけど、彼らに兵力を分散させるだけの余裕はもうないはずよ」
エーデルガルトの言葉に各将も頷く。
もともと兵力で劣っている王国軍が兵力を分散させたところで、数と質で勝る帝国軍に各個撃破されるだけだ。それよりも、フェルディアの守りを固めて攻めてくる帝国軍を待ち受けるほうが時間は稼げるだろう。
だが、あくまで時間稼ぎだ。既にヒューベルトが仕込んだ工兵部隊は川の上流を押さえている。この工作が成功すれば王国軍の補給路は断たれ、長期間の籠城すら不可能となるだろう。
「水も飲めないなんてかわいそうだけど……戦闘が長引くよりはましなのかしら」
「兵糧、断つ、戦いの基本、です。飢えた敵、降伏、するかもしれません」
「そうしてくれるならてっとり早いんだけどね……」
眉を顰めるドロテアにペトラが闊達と応える。そんな二人の会話を耳に挟みながら、リンハルトは溜め息をついた。
王国軍に降伏する気があるのであれば、ディミトリが討ち取られた時点でそうしていただろう。最後の一兵になっても戦う――それが王国軍の流儀、あるいは誇りなのかもしれないが、リンハルトにそんな美学は毛頭理解できなかった。
「こちらの兵糧はレスター諸侯同盟の竜騎兵たちが順次運搬する手筈になっています。同盟領の豊富な資源を得られたのは大きいですね」
ヒューベルトは話を続けながら不敵な笑みを浮かべる。
デアドラの戦いで同盟軍は帝国軍に降伏し、同盟軍に属していた将兵や領地は帝国軍に引き渡された。
その後、エーデルガルトは同盟軍の将兵を厚遇して諸将の信頼を得ると、同盟領から食料や物資を輸入する協定を結んだのだ。帝国兵として戦うことを拒んだ兵士には屯田を勧め、それによって帝国軍は広範囲の戦場で豊富な資源を確保することが可能になったのである。
「西から援軍にくる天馬騎士の迎撃はベルナデッタに任せる。城内の味方が空から挟撃されないよう、未然に防いでくれ」
「べっ……ベルですかぁ⁉ うう、でも……わかりました」
ベレトの指示にベルナデッタは渋々といった様子で頷く。
天馬騎士の迎撃はベルナデッタが適任だろう。彼女の弓術の腕前があれば、上空から攻めてくる敵をいち早く迎え撃つことができる。それは彼女自身も理解しているはずだ。
「それから東のほうだが――」
「ぼっ……ボクに任せてください!」
ベレトの言葉を遮るように、一人の青年が椅子から勢いよく立ち上がった。
「イグナーツ……」
べレトは一度言葉を止めてイグナーツに視線を移す。
同盟軍が降伏して帝国軍に帰順した際に、同盟軍に属していた将兵たちも帝国軍へと下った。その中には、士官学校で見知った面々もいたのである。
「……戦ってくれるのか? 同盟領の将兵には工作や物資の運搬を任せようと思っている。無理はしなくてもいい」
珍しくべレトが狼狽えた様子――とはいえ、ほんの僅かではあるが――を見せるが、イグナーツは「大丈夫です」と力強く応えた。
デアドラの戦いで敗れたクロードはパルミラへと帰還し、市街地の守備についていたヒルダは討死した。
その後はクロードの意向通りに帝国軍が同盟領の将兵を雇用したため、生き残った彼らが路頭に迷うことこそなかったが、当然ながら腑に落ちない部分もあるだろう。
「いろいろ、思うことがないわけではないですけど……でも、この戦いで勝てば戦争は終わるんですよね? なら……ボクもそのために戦います」
イグナーツの口調は躊躇いがちではあったが、その言葉からは確かな意思の強さが感じられた。
「ありがとう」
ベレトは短く礼を告げたあとエーデルガルトに視線を送る。その無言の問いかけに応じるように、エーデルガルトは頷いてみせた。
「では、東からの援軍の迎撃は貴方達に任せるわ。……頼んだわよ」
「はい!」
エーデルガルトの言葉にイグナーツは力強く応える。
「ふむ。ならば僕の部隊はフェルディナント達の援護をしよう。構わないかな?」
「ええ。グロスタールの騎兵が協力してくれるのであれば心強いわ」
イグナーツの行動に感化されたのか、共に帝国軍へと下ってきたローレンツが名乗りを上げた。その心意気に応じるように、エーデルガルトは異論なく了承する。
「戦闘はできるだけ市街を避けて行う。帝国軍も王国軍も、極力無駄な犠牲を出さずに済むようにしよう」
べレトの指示が再度、皆の耳に届く。
それに各々が頷きを返して軍議は終了となり、ベレトは静かに立ち上がった。
***
幕舎の外に向かうベレトの後ろをエーデルガルトが追うように歩く。二人は何事か言葉を交わすと、共にいずこかへと去っていった。おそらく、今後の動きについて内密に打ち合わせをするのだろう。
リンハルトは無意識にその背を目で追っていたことに気づいて視線を外すと、横で腕を伸ばしているカスパルに向き直った。
「……ふう。やっぱり軍議って疲れるね。どう、このあと食堂にでも行かない?」
「構わねえけど……お前、寝なくていいのかよ」
「今日はいいや。決戦の前だからかな、目が冴えちゃってね」
二人は会話を交わしながら天幕を後にし、横に並んで駐屯地内を歩く。
まだ本格的な戦闘は始まってはいないとはいえ、駐屯地内には戦を前にした緊張感が漂っている。リンハルトはその空気を肌で感じながら、カスパルと他愛のない会話を続けた。
「そういえば、お前……髪ちょっと伸びたんじゃねえか?」
隣を歩くカスパルが不意にリンハルトの髪を一房手に取る。
言われてみれば、最後に髪を切ったのはいつだっただろうか? 士官学校時代はカスパルに散髪を頼んでいた――というか「散髪くらいしろよお前!」と呆れられるので切ってもらっていた――気がするが、ここ半年どは忙しさにかまけて身なりを気にする余裕などなかった。
「……そうかなあ。このくらい伸びると自然と切れちゃうからあまり気にしたことなかったな」
リンハルトは肩に流れている自分の髪を一房摘んで顔の高さまで持ち上げる。ヘヴリング邸にいたときは使用人に洗ってもらっていた艶やかな黒髪は、連戦の影響でいくぶんか傷んでしまっていた。
「あんまり長いと戦闘中も邪魔だろ? 敵に掴まれたり、何かにひっかかったりしてさ」
「僕は君みたいに取っ組み合いをするわけじゃないからそこまででもないけど……風が強い日なんかはさすがに煩わしいね」
カスパルの言葉にリンハルトは同意を示す。
実際、風に煽られて視界を遮られることはままあった。とはいえそれによる煩わしさよりも、カスパルのように頻繁に髪の手入れをする煩わしさのほうが勝ってしまうのだが。
「エーデルガルトみたいに纏めちまったほうが邪魔にならねえんじゃねえのか?」
「あの髪型はけっこう手間がかかってるんだよ。あれを毎日やるなんて骨が折れちゃうよ」
「んー……じゃあ、こうしたらどうだ? ちょっと触るぜ」
カスパルはそう断ってからリンハルトの髪を一度ほどき、一部の髪をくるりと丸めたあと後頭部でひとつに纏める。
「お、やっぱりこっちのほうがいいな! お前の顔もよく見えるし」
カスパルはリンハルトの髪から手を離して満足そうに頷いた。リンハルトは自分の髪に触れ、しっかりと纏められていることを感触で確認する。
「まあ、確かにこっちのほうが楽かな」
「だろ!」
上機嫌なカスパルにリンハルトも釣られて口角を上げた。
「……ずいぶんと人の髪を結ぶのがうまくなったんだね」
「えっ?」
「子供のころ結んでもらったときはだいぶ縺れてた気がするけど」
当時のことを思い出しながらリンハルトは自分の髪を指先で弄ぶ。
幼い頃のカスパルの指先はとても不器用で、おまけに力加減も下手だった。お陰で鏡に映った自分の頭は乱れに乱れてひどい有様だった気がする。「結んでもらった」というよりは「縛られた」という表現のほうが適切なくらいだ。
「……覚えてたのかよ。つうか、起きてたんだな」
「眠ってたよ。でも、使用人がやったのならあんな下手な結び方にはならないからね」
「うっ……悪かったな」
リンハルトの指摘にカスパルが唇を尖らせる。
当時のリンハルトは昼寝をしており、カスパルが自分の髪を結んでいる様子を実際に目にしたわけではなかった。だが、状況からしてカスパル以外にはありえない――というのが推測であり、真実だったようだ。
「この紐も、まだ使ってたんだな。こんな小せえもんよくなくさないなあ」
カスパルはどこか懐かしむように目を細めると、リンハルトの髪を留める白い紐に軽く触れる。
「当時は髪紐なんてこれしか持ってなかったから……それに、切れない限りは使えるものだからね」
リンハルトの言葉に、カスパルは髪紐にもう一度目を落とした。長い年月を経たことで白い紐はややくすみ、表面に塗られていた顔料が剥がれ落ちてしまっている。
「……いや、そうじゃないか」
リンハルトは一度口にした自分の言葉を否定すると、改めてカスパルに向き直った。
「君がくれたものだから、大事に使ってたんだよ。だからずっとなくすこともなかったし、切れることもなかったんだ」
「……そうなのか」
リンハルトの率直な告白にカスパルが面食らったように目を瞬かせる。しかしそれも束の間のことで、彼はすぐに相好を崩して嬉しそうに頷いた。
「ならよかったぜ!」
その笑顔があまりにも眩しかったからだろうか。リンハルトは、心のうちに秘めていた想いが溢れ出しそうになっていることを自覚する。
「……ねえ、カスパル」
気づけばリンハルトはそう呼びかけて足を止めていた。つられて足を止めたカスパルが不思議そうに振り返る。
「この戦いが終わったらさ……少し話がしたいんだけど、時間をもらえないかな?」
「ん? 別に構わねえけど、どうしたんだよ。話があるんなら今日でも明日でもオレは問題ないぜ」
カスパルはわずかに眉を上げた。リンハルトの申し出の意図を汲みかねているのか、その表情には疑問符が浮かんでいる。
「急ぐ用事ではないよ。だから……無事に生きて帰れたら、そのときに話そう。約束だよ」
リンハルトはカスパルの疑問には答えずに微笑む。
鍛錬所では既に兵士たちが調練を始めていた。決戦を目下にした兵士たちの気迫に満ちた声が、リンハルトの鼓膜をびりびりと震わせる。
この決戦に勝利すれば戦争は終わるだろう。女神の敷いた道標はなくなり、人々は人間の歴史を刻み始める。ひとつの時代が終わり、そして新たな歴史の歯車が動き出すのだ。
――生きて帰ろう。
リンハルトは胸に秘めた決意を反芻すると、目の前の幼なじみの背を軽く押して食堂へと促した。
燎原の火
それから数日後――帝国軍と王国軍の決戦の火蓋が、ついに切って落とされた。
戦線を押し込んだ帝国軍がフェルディア城を取り囲むと、レアは城下町に火を放って徹底抗戦の構えを見せた。城下町には炎に追われて逃げ惑う王国の民が溢れ返り、それによって帝国軍は大規模な魔法攻撃や一斉掃射を封じられたのである。
「……城下町に火を放つなんて、もう手段は選ばないって感じですね。魔法や掃射に住民を巻き込んじゃったら甚大な被害が出てしまうわ」
「まあ、これだけ燃えてるなら逆に遠慮なく炎魔法を使えるけどね」
リンハルトとドロテアはフェルディア城から立ち上る炎を見つめながらつぶやく。
リンハルトたちが拠点としている駐屯地からも、炎によって明滅を繰り返す空が見えた。まだ日が昇りきらない空は戦火に照らされ、地上には赤く燃え盛る城郭が天を衝いて聳え立っている。
「では、わたし、先に行きます。おふたり、援護、任せる、します」
「うん。城内は既に火に包まれてると思う。くれぐれも気をつけてね」
「何かあったらすぐに合図してちょうだい」
矢筒を背負ったペトラは二人に言葉をかけると、愛竜に飛び乗ってフェルディア城の方角へと飛び立っていった。
竜騎兵たちの影が小さくなってゆくのを見送りながら、リンハルトは城門に視線を移す。
城門の前では既に小競り合いが始まっていた。破城槌を押す工作兵やそれを警護する歩兵部隊が、王国軍の矢を雨のように浴びながら城門へと向かっている。
あの中にカスパルやエーデルガルトがいるのだろうか――リンハルトは帝国軍の遠影を眺めながら目を細めた。
カスパルはベルグリーズ戦団を率いて城門の前に布陣し、王国軍の守備部隊と戦闘を繰り広げているはずだ。エーデルガルトもおそらくはその近くに陣取っているのだろう。
だが、この距離では二人の姿を目視することはできなかった。リンハルトは少しだけ目を眇めてから再び上空へと視線を戻す。
そのとき、フェルディア城の上空から魔法が放たれるのが見えた。光を纏った矢が空高く舞い上がり、弧を描きながらこちらの拠点へと飛んでくる。
「ドロテア、伏せて!」
リンハルトの鋭い声に気付いたのか、上空から風を切る音が耳に入ったのか――天幕に戻ろうとしていたドロテアは身を屈めるようにして地面に伏せた。それとほぼ同時に光の矢が大地へと突き刺さる。
幸いにも魔法はリンハルトたちには直撃しなかったが、周囲には炎が巻き起こり駐屯地に土煙が立ち上った。飛び散った甃の破片によって負傷した兵士たちが、悲鳴を上げながら地面を転げ回っている。
リンハルトはドロテアの無事を確認すると、上空を旋回している王国軍の天馬騎士を見上げた。おそらくあれはただの斥候であり、魔術を行使した者は別にいるのだろう。
「衛生兵に怪我人の救助に向かうよう伝えてくれ。重傷者は詰所まで運ぶんだ」
リンハルトは付近に待機していた伝令に指示を出すと、威嚇するように天馬騎士へと風の刃を飛ばす。天馬騎士はリンハルトの魔法に怯んだのか、空高く舞い上がるとそのまま遠くの空に消えていった。
「あんな遠くから攻撃してくるなんて……ずいぶんなご挨拶ですね」
「でも、いまの攻撃で術者の位置がわかったよ」
立ち上がるドロテアに手を貸しつつ、リンハルトは思考を巡らせて敵陣に目を凝らす。
魔法の軌道は弓矢より多彩かつ複雑であるため事前に防御策を講じにくいが、使用している魔術の種類さえ特定できれば座標を絞ることは比較的容易だ。
「ドロテア、僕が座標を指示するからメティオで敵軍の魔道士を攻撃できる?」
「ええ、任せてください」
リンハルトの言葉にドロテアは力強く頷く。
――こうして、帝国軍と王国軍の最終決戦が幕を開けた。
***
帝国軍の工作兵がフェルディア城の城門へと向かっている頃、カスパルとエーデルガルトの部隊は工作兵を守りながら戦線を押し上げていた。
大盾と鎧で武装した覇骸隊が十数列の隊列となり、敵軍の矢や投石を弾きながら前進していく。その右側面と後方を歩兵が守り、待ち受ける王国兵と戦闘を繰り広げていた。
「その調子だ! このまま進めぇ!」
前線で斧を振るいながらカスパルが兵士たちを鼓舞する。その声に呼応するようにベルグリーズ戦団が鬨の声を上げ、王国兵の陣形を食い破っていった。
帝国軍の勢いに気圧されたように王国兵たちの隊列が一歩、また一歩と後ずさる。その隙を逃さず、カスパルは一気に敵陣へと踏み込んだ。
「うおおおっ!」
振りかぶった斧の一撃が敵兵に直撃し、血飛沫とともにその体が吹き飛ぶ。地面を転がった敵兵は立ち上がろうともがいていたが、やがて力尽きたのか動かなくなった。
「このまま城門まで突っ切るぞ! 続けぇ!」
カスパルの声に呼応して兵士たちも鬨の声を上げながら前進を続ける。覇骸隊という壁に行軍を阻まれた王国兵たちは後退を余儀なくされたらしく、城門までの距離はじりじりと縮まっていった。
「……誘い込まれているわね」
敵兵の動向を訝しんだエーデルガルトは、城門の前方に布陣した王国軍の拠点を見据えて目を眇める。
「ですね。こちらの陣形を崩すのを諦めて、拠点まで引き下がるつもりでしょう。となれば、伏せているのは魔道部隊か……」
エーデルガルトの副官として随伴していたヒューベルトは表情を崩さないまま頷いた。
二人が王国軍の出方をうかがっている間にも、帝国軍の歩兵部隊は着々と敵の拠点へと近づいている。
このままいけば歩兵部隊はほどなくして敵の拠点に辿り着き、門を破壊して侵入を果たすだろう。だが、それは同時に魔道部隊による一斉攻撃を覚悟しなければならないということだ。
「伝令兵、ベルグリーズ隊に連絡を――」
「いえ、彼の部隊にはこのまま泳いでもらいましょう。人間は攻撃に転じる瞬間がもっとも無防備です。カスパル殿の部隊にはこのまま囮となってもらうのが上策かと」
エーデルガルトの指示をヒューベルトが遮る。
エーデルガルトは横に並ぶヒューベルトの横顔を一瞥すると、数秒の思案ののち納得したように頷いた。
「……では、ベルグリーズ隊にはこのまま前進するよう伝言を」
「はっ!」
エーデルガルトの指示を受け、伝令兵がカスパルのもとへ馬を走らせる。カスパルは伝令兵の言葉に力強く頷くと、再び前進して王国兵へと向かっていった。
「このまま突っ切って敵陣に突っ込むぞ! 進めぇ!」
カスパルの掛け声とともにベルグリーズ戦団が進軍速度を上げてゆく。
後退した王国軍は陣地内へと引き下がると、速やかに閉門して帝国軍の侵入を阻んだ。
分厚い門扉にベルグリーズ戦団の巨大な斧が叩きつけられ、鈍い金属音が周囲に響く。何度目かの攻撃で遂に門扉が開かれると、カスパルを先頭としたベルグリーズ戦団が我先にと陣地内に流れ込んだ。
刹那、その瞬間を狙ったように、カスパルの頭上を炎の矢が駆け抜けた。カスパルは迫り来る炎の塊を咄嗟に斧で打ち払ったが、その隙を縫うようにして矢の雨が降り注ぐ。
「……くそっ!」
炎と矢を浴びた兵士たちが次々に倒れ伏す姿を横目にしながら、カスパルは苦々しく舌打ちする。敵の弓兵は櫓の上に陣取り、高所から射掛けているようだった。
カスパルとて、開門時の伏撃を予測できないわけではない。だからこそエーデルガルトやヒューベルトよりも率先して敵陣へと斬り込んでいたのだ。
「立ち止まるな! 立ち止まったやつから狙い撃ちにされるぞ!」
カスパルは兵士たちを叱咤しながら、矢の雨の合間を縫うようにして前へと進む。先ほど陣地へと撤退した王国軍の歩兵部隊は、隊列を整えて次の攻撃の準備をしていた。
王国兵から放たれた矢が、ベルグリーズ戦団の頭上を掠めて次々と地面に突き刺さってゆく。その内の一本がカスパルの眼窩を射抜こうとしたとき――突如、その軌道が大きく逸れた。
「な……っ!」
矢は不自然な曲線を描きながら地面へと落下し、そのまま土煙を上げて地面を抉った。その光景に驚いたのはカスパルだけではなく、敵も味方も同じだった。
「――ベストラ魔道兵の精鋭たちよ、敵陣を蹂躙するのです」
ヒューベルトの号令とともに、彼の周囲に控えていた魔道兵たちが一斉に魔術を行使する。彼らの前方には禍々しい魔法陣が現れ、そこから煤のような闇色の奔流が放出された。
闇色の奔流は王国軍の兵士たちを呑み込み、その全身を黒煙で包み込む。兵士たちは闇雲に得物を振り回すものの、その抵抗も虚しく次々と倒れ伏していった。
「助かるぜ!」
カスパルは再び斧を振りかぶって敵陣へと切り込んでゆく。ベルグリーズ戦団の兵士たちもそれに続き、混乱状態の拠点を一気に攻め落とした。
「助かったぜ、ヒューベルト」
「なに、礼を言われるようなことではありませんよ」
拠点を制圧し、戦闘がひと段落したところでカスパルは改めてヒューベルトに礼を告げる。ヒューベルトは含みのある笑みを浮かべつつ、カスパルに軽く会釈してみせた。
「おや……カスパル殿、負傷されたのですか?」
ヒューベルトはカスパルの腰のあたりに視線を落とす。釣られてカスパルも視線を落とすと、鎧と革帯の隙間から血が滲み出ているのが見えた。
「あっ……⁉」
カスパルは慌てて腰帯を外して傷口を確認する。どうやら先程の矢のひとつが脇腹を掠めていたらしく、外套が裂けてその下の皮膚が抉れていた。
「いつの間に……」
「動かないでください。止血をいたしますので」
ヒューベルトはカスパルを制止し、懐から取り出した手巾で傷口を押さえつける。
「うおっ……⁉ 痛ってぇ……!」
「我慢してください」
ヒューベルトは無表情で傷口を圧迫してカスパルの傷口に止血を施す。カスパルは痛みに顔をしかめながらも、大人しくヒューベルトの手当てを受けていた。
「出血が少ないので軽傷かと思いましたが、にわかに出血してきましたね」
「おかしいな……さっきまで痛くなかったのによ」
ヒューベルトの処置を受けながらカスパルは不可解そうに首を傾げる。傷は存外に深手だったらしく、熱を持って痛みを訴えながらしたたかに血を溢れさせていた。
「戦場ではままあることです。興奮状態の人間は痛みを感じにくいのですよ。それと同時に血管が収縮するため、出血も少なくなります。戦闘が終わって興奮状態が収まったために、痛みと出血が一気に出たのでしょう」
ヒューベルトは手巾を手早く包帯状に裂いてカスパルの腰に巻きつける。
「ひとまずこれで出血は抑えられるでしょう。ですが、油断は禁物です。早急に天幕で衛生兵の治療を受けてください」
「ああ、ありがとな」
カスパルは腰帯を巻き直し、ヒューベルトに礼を言って立ち上がる。その動作ひとつでも傷口に痛みが走り、カスパルは小さく呻いて眉間に皺を寄せた。
――こんなときにリンハルトがいりゃあな。
ふいに、幼なじみの姿が脳裏をよぎってカスパルは遠方の空に目をやった。
いまごろリンハルトはドロテアと共に拠点で味方の援護をしているのだろう。
カスパルは、リンハルトが自分のことを好きなのではないかと半ば確信していた。というより、リンハルトがそれを気づかせようとしているのではないかと思っている。
リンハルトが同性を性愛の対象に含めていることは知っていたし、彼から向けられる好意を不快に感じたことはなかった。
リンハルトの言葉に含まれる甘さと、それを通して与えられる感情が自分の中に積もっていく感覚。それは不思議と心地よくて、カスパルはただ穏やかな心持ちでそれを受け入れていたのだ。
ただ、リンハルトの愛情にどういった意味が含まれているかを考えたとき、カスパルは自分がリンハルトに向けている好意が彼と同じものなのか確信が持てないでいる。
リンハルトのことは好きだし信頼もしているが、それは果たして友愛なのか、恋慕なのか。そのように判別がつかない好意は彼が自分に求めているものなのか――
「カスパル殿」
「うおっ⁉」
突然背後から声をかけられ、カスパルは驚いて振り返る。そこには先ほど立ち去ったはずのヒューベルトが立っていた。
「なっ……驚かすなよ、ヒューベルト!」
「なんだではありません。戦場で考えごとなど死にたいのですか。早く天幕で治療を受けてきてください」
ヒューベルトは呆れたようにため息をつき、カスパルの顔をじっと見つめる。
「……な、なんだよ?」
「いえ、貴殿にも人並みに悩む心があったことに驚いたのです」
「うるせぇな……俺にだって色々あるんだよ」
ヒューベルトの揶揄いにカスパルは決まり悪く頭を掻いた。
「でもまあ……確かにオレらしくないな。うん、そうだ。本人に直接聞けばいいんだ。よし!」
カスパルはひとり納得したように頷き、勢いよく踵を返して天幕へと駆け出す。
突然のカスパルの行動にヒューベルトは少しだけ目を眇めたが、すぐにいつもの鉄面皮に戻ってその背中を見送った。
***
日が山の端に沈みきると辺りはすっかり暗くなり、夜の闇が空を覆い尽くす。
リンハルトは煌々と燃える篝火を視界の隅に収めながら拠点の哨戒を行っていた。
開けた丘陵の上に建てられた拠点からは周囲を一望することができ、夕暮れに伴って両軍が陣地へと撤退する様子が見て取れる。
戦闘が一時的に中断しても、一度燃え上がった火はそうそう止まるものではないだろう。王国軍は帝国軍の夜襲を警戒しながら、城内の消火作業に明け暮れることになる。
加えて、ヒューベルトの奸計によって補給路を断たれているのだ。膠着状態が長引けば長引くほど、王国軍は不利になってゆく。となれば、早期決着のために夜襲という手段に出るかもしれない。
それを警戒してリンハルトは自ら哨戒にあたっていたわけだが――
「……ん? あれは……?」
リンハルトは視界に入った景色にを止める。
拠点から見下ろした先、丘陵の斜面に這うように設えた道の中ほどに、蟻の列のようなものが見えた。それはもちろん蟻などではなく人間なのだが――問題は、それが何の集団であるかだった。
人間に混ざって馬、牛、山羊といった家畜の姿が見えるため、明らかに軍隊が成した列ではない。隊列の数箇所には幌のような白い布が掲げられており、戦闘の意思がないことを主張していた。
「……民間人? もしかして、フェルディアから逃げてきたのか?」
リンハルトは目を凝らしてその集団を見つめる。夜間のうえ遠目のため判然としないが、鎧兜を身につけていない彼らは確かに民間人のように見えた。
「リンハルト殿! フェルディア城から脱出してきた民間人が拠点に向かってきているようです。いかがなさいますか」
哨戒にあたっていた兵士の一人がリンハルトのもとへ駆けてくる。
戦場の上空では斥候を兼ねた竜騎兵が常に巡回しているため、前線部隊が難民の存在を察知していないとは思えない。伝令からはなにも伝えられていないが、指示が出ていないということは後方の拠点で保護しろということだろう。
リンハルトはそう判断し、ひとつため息をつく。
「しょうがない、ここで受け入れよう。ここまで辿り着けたってことは前線部隊が彼らを通したってことだろうしね。休憩してるとこ悪いけど、難民用の天幕も設営してくれないかな。怪我人がいるようなら衛生兵の詰所に連れて行ってくれ」
「はっ!」
兵士は一礼をすると、すぐにリンハルトの指示に従って動き始めた。
リンハルトも衛生兵の詰所へと向かい、おおよその怪我人の数を確認する。火傷による負傷者は少なかったものの、避難の際に煙を吸ったり転倒するなどして軽傷を負っている者が大勢いた。
「なあ、あんた帝国の偉い人か? なら、俺の話を聞いてくれよ」
顔の片側に包帯を巻いた男がリンハルトのもとにやってきて声をかける。リンハルトの返事も待たずにずいと身を乗り出し、すがるように法衣の袖を掴んだ。
「落ち着いて。まずは傷の手当が先だ」
リンハルトが静かに宥めると、男は渋々といった様子で手を離した。
男の口調からはやや興奮している様子が窺える。一度間を置けば、多少は気分が落ち着いて円滑に会話を進められるだろう。
「……俺は、フェルディアから逃げてきたんだ。帝国軍が攻めてきて、町も燃えちまって……俺たちはもうおしまいだ」
「うん、それは知ってるよ。だからこうして受け入れてるんじゃないか」
リンハルトのすげない言葉にも男は反論しなかった。ただ、絶望的な表情で両手を見つめるだけだ。
「帝国兵が火を放ったって言うやつもいるけどよ……俺は見たんだよ、セイロス教会の連中が町に火をつけて回ってるところを……。なあ、教主様は俺たちを見放したのか? 俺たちはこれからどうなる?」
「さあね」
リンハルトの答えに男は力なく項垂れ、さめざめと涙を流し始めた。リンハルトは施術を行いながらため息をつき、男の傷口に消毒液を塗る。
「うん、化膿はしてないみたいだね。興奮すると血が出やすくなるから安静にしてなきゃだめだよ」
男は手際よく包帯を巻くリンハルトをしげしげと眺めて不思議そうに首を傾げた。
「……帝国の連中ってのはもっとこう、残忍なやつらばかりだと思ってたけどよ……あんたは違うみたいだな」
「まあ、喧嘩っ早い人もいるけどね。それは王国の人達だって同じじゃないかい」
「はは、ちげぇねえや。そうだな……帝国の連中も人間だったんだな……」
男は泣き腫らした目を擦り、安心したように笑う。
リンハルトは包帯を巻き終えると、立ち上がって男の肩をぽんと叩いた。
「はい、終わり。もう動いても大丈夫だよ。あとは天幕で休むといい。多少は食料も用意されてるはずだよ」
「ああ……ありがとな」
男は礼を言って衛生兵の詰所を後にする。
その背中を見送ってからリンハルトは再び怪我人の治療を始めた。
空の果て
朝焼けがフェルディアの町に覆い被さる。それと同時に帝国軍は進軍を再開し、レアが陣取る庭園を目指して一気に城内を駆け上がった。
既に王国軍の前線部隊は壊滅し、帝国軍は包囲網を完成させている。あとはレアの身柄を確保してフェルディアを陥落させればこの戦いは終わるだろう。
城内にはいまだ炎がくすぶっていた。熱風がじりじりと肌を焼き、舞い上がった火の粉が鼻先を掠めていく。水路を絶たれているせいで城内には水の供給源が井戸しかなく、消火活動もままならないために火勢は衰える様子を見せていなかった。
「ちっ……熱いな……リンハルトだったらこの熱さだけでぶっ倒れてるところだ」
カスパルは燃え盛る炎の熱と煙たさに思わず咳き込んだ。煤を吸った喉がひりつくような痛みを訴えてくる。むせかえるような熱気と臭気によって呼吸すらままならず、カスパルは滴る汗を拭いながら周囲を見回した。
フェルディアの宮城は地獄の様相を呈していた。
壁や床は煤で汚れ、所々が黒く変色している。燭台に装飾として施された金箔は熱で溶けて垂れ下がり、床には炭化しきった絨毯が貼り付いていた。何かが焼け焦げたかのようなこの異臭が、どこから漂ってくるのかも判然としない。
カスパルの視界が捉えたものは、王国軍の兵士が息絶えている姿だった。そのほとんどは炎に焼かれて真っ黒に炭化していたものの、まだ火の手が回っていない箇所では体を丸めて絶命している兵士の姿もあった。
カスパルは床に残る血痕にちらりと視線をやり、何かを言おうとして口を開いたが、すぐに首を振って唇を引き結ぶ。それから意を決したように顔を上げ、率いていた兵士たちに檄を飛ばした。
「いいか、お前ら! レア様のところには先生とエーデルガルトが向かってる! オレ達の役目は二人の部隊が進軍できるように周囲の敵を排除することだ! 鼠一匹通すんじゃねえぞ!」
カスパルの言葉に兵士たちは鬨の声を上げる。
エーデルガルトが自らの手でレアを討つと宣言したとき、カスパルは自分が少なからず安堵していることに気がついた。
信心深いほうでないとはいえ、レアのあの慈悲深い笑みと言葉を思い出すたびに、それに刃を向けるという状況にカスパルは畏れのようなものを抱いてしまう。おそらくそれがレアの持つ力――信仰の象徴としての求心力なのだ。
だからこそエーデルガルトは自らの手でレアを討つのだろう。人が女神の支配から脱却し、自らの足で歩み出すために。
「……よし! オレについてこい!」
カスパルは斧を構え直して城内を進んでいく。兵士たちもカスパルに続き、敵味方が入り乱れる戦場へと飛び込んでいった。
***
寝台に横たわって眠りにつこうとしていたリンハルトは、天幕の外から聞こえてくる歌声に瞼を開けた。
戦場にはおおよそ似つかわしくない穏やかな旋律はおそらく子守唄だろう。
リンハルトは寝台脇の台に置いてあった剣を腰に佩くと、天幕の入口で警備をしていた兵士に外出の旨を伝える。そして、その音色に誘われるように歌声のするほうへと歩いていった。
やはりと言うべきか、歌声の主はドロテアだった。会食場で歌声を響かせる彼女の周囲を、数人の兵士が囲んで歌声に耳を傾けている。リンハルトもそれに倣い、端の席に腰をかけて歌に聞き入った。
歌というものには魔力がこもっているのではないか――とリンハルトはしばしば思うことがある。
歌は人の感情を揺り動かし、心を奮い立たせる力を持っている。それは時に安らぎを与え、穏やかな眠りへと導くのだ。
歌声に耳を傾けているうちに心が凪いでいく。人を夢の中へと誘う穏やかな旋律には、さながら眠りの淵へと誘う魔法のような力が宿っているのではないだろうか。
やがて歌声が止み、リンハルトはまどろみから解放された。ふと周囲を見回せば兵士たちも一様にぼんやりとした表情になっている。どうやら彼らにも歌の魔力が届いたようだ。
「……あら、リンくんもいたんですか? すみません、歌うのに夢中で気がつきませんでした」
歌い終えたドロテアは、リンハルトの存在に気がついてそちらへと振り返る。
「ああ、別に気にしなくていいよ」
「ふふ、ありがとうございます。でも、リンくんも眠れないんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
リンハルトは曖昧に頷きながら答える。
「緊張して眠れない人が多いみたいで……歌えば少しは眠りやすくなるかと思ったんです」
ドロテアは周囲を見回す。彼女の周りに集まった兵士たちは未だ夢見心地から覚めやらぬ様子でぼんやりとしていた。
皆、体が疲弊していても緊張や不安で眠りにつけないのだろう。兵士たちの心中を慮り、リンハルトはやれやれと息をついた。
「君の歌だと、逆に聞き入って眠れなくなっちゃうかもね」
「あら? それは光栄ですね」
リンハルトの軽口にドロテアも笑って返す。それからふいに声を潜め、耳打ちするような小さな声でリンハルトに訊ねた。
「ねえリンくん、カスパルくんとは本当にただの幼なじみなんですか?」
「……こんなところでもそんな話かい? ヒューベルトにも似たようなこと訊いてたよね。陛下のことが好きなんじゃないかとかどうとか」
「知ってたんですか?」
辟易した態度を隠さないリンハルトにドロテアはくすりと笑みを浮かべる。
「機会があったら訊いてみたいと思ってたんですよね。カスパルくんに訊いてもはぐらかされそうでしょう?」
ドロテアはリンハルトの席に腰を下ろして話を続けた。
「で、実際のところはどうなんですか?」
「……残念だけど、君が期待しているような関係ではないよ。いまのところはね」
「あら、そうなんですか?」
リンハルトは素っ気なく答えるが、ドロテアはその返事では納得できないようだった。
「ねえ、リンくん。カスパルくんって可愛いですね」
「……なに、急に?」
予想だにしない言葉にリンハルトは思わず間の抜けた声を上げる。ドロテアはその反応を見て満足げに微笑んだ。
「本当に、とっても可愛いと思ってるんですよ。真っ直ぐでひたむきで……でも、だからこそ危なっかしいところもある」
「……まあ、それは同感かな」
ドロテアの真意は読めなかったが、リンハルトもその点に関しては同感だった。
カスパルのひたむきさは彼の魅力ではあるものの、それが時に彼の身を害することがあるのも確かだった。鍛錬や喧嘩で負傷して帰ってくるカスパルを見るたびに、リンハルトは呆れと同時に不安を抱いてしまうのだ。
「できれば危ない真似はしてほしくないけど……でも、あれがあいつの選んだ生きるための手段だからね。それを僕が否定することはできないよ」
リンハルトは給仕が用意してくれた水を口に運びながらぽつぽつとつぶやく。
なぜ人にこんな話をしようと思ったのか――気分としか言えないその事象を、リンハルトは歌の魔力のせいにすることにした。
リンハルトの言葉にドロテアは眩しそうに目を細め、机の上で組んだ自分の手に顎を乗せて微笑んだ。
「……なんだか機嫌がよさそうだね」
「そうですか? ふふっ。少し羨ましくなっちゃって」
ドロテアの笑みにリンハルトは首を傾げる。しかし、それ以上深く追求することもなく再び視線を外に向けた。
――そのとき、突然穏やかな空気を引き裂くようにけたたましい警鐘が鳴り響いた。
リンハルトは机に手をついて席から立ち上がり、ドロテアと視線を交わして小さく頷く。周囲でまどろんでいた兵士たちも警鐘の音に跳ね起き、一斉に持ち場へと走っていった。
「敵襲です! 南東の空から王国軍の天馬騎士が攻め入ってきました!」
伝令の兵士がリンハルトの元へ駆けてくる。
「敵襲か……やっぱり来ちゃったんだね」
リンハルトは軽くため息をつき、ドロテアのほうを振り返った。
可能なのであれば後方支援に徹していたかったが、そうも言っていられないらしい。
「ドロテア、君は難民たちの避難誘導をしてくれ。僕は天馬騎士の相手をしてくる」
「ええ、わかりました。気をつけてくださいね、リンくん」
ドロテアの背を見送ってからリンハルトは伝令へと向き直る。
「状況は?」
「はっ! 王国軍の天馬騎士が南東の空より襲来。現在エーギル騎兵隊と交戦中ですが、守備網を通過した一部の敵がフェルディア城へと向かっているようです」
「なるほど」
リンハルトは顎に手をあてて思案する。
フェルディナントが守る拠点からフェルディア城に向かうのであれば、迂回しない限りはこの拠点を通らざるを得ない。こちらから攻撃しなければ交戦せずに済むかもしれないが、看過すれば城で戦っている味方を挟撃されるだろう。
「ここで迎え撃とう。周囲の拠点にいる味方と連携して迎撃に当たってくれ。上空からの攻撃に備えて、守備部隊は魔法による防御壁を展開しておくこと。敵は寡兵だ、油断さえしなければ問題なく対処できるはず。僕も魔道兵を連れて応戦する」
「はっ! お気をつけて!」
兵士は敬礼で応え、すぐさま自分の持ち場へと走り去っていく。それを見届けてからリンハルトも守備につくために足早に会食場を後にした。
戦場が近づくにつれ、剣戟の音や魔法が炸裂する音が耳に入るようになってきた。まだ交戦が始まって間もないため、両陣営に大きな被害は出ていないようだ。
リンハルトは魔道部隊を整列させ、自らも戦列に加わろうとしたところで敵影を捉えた。
天馬騎士の一団が拠点の上空で旋回し、こちらの出方を窺っている。それを牽制するように帝国軍の竜騎兵が上空へと飛び上がり、天馬騎士たちを威嚇していた。
「まだだよ。竜騎兵たちがこちらの射程まで敵を引き付けてから攻撃するんだ」
リンハルトは魔道部隊に指示を出しながら自身も魔法を放つ準備をする。
敵の残存兵力が乏しいことを考慮すると、この襲撃が最後の抵抗となるだろう。魔力を温存してこちらの被害を増やすよりは、一気に畳み掛けて早々に戦闘を終わらせてしまったほうが賢明だ。
「……よし、いまだ!」
リンハルトの号令と同時に魔道士たちが上空に向けて風魔法を放ち始めた。地上から放たれた魔法の矢は上昇気流を受けてさらに勢いを増し、天馬騎士の一団へと襲いかかる。
魔法の威力に怯んだのか、天馬騎士たちはやや高度を取りつつ陣地への距離を詰めてきた。その段階で魔道士たちは一度後退し、後方に待機していた弓兵部隊が一斉に射掛ける。
天馬騎士たちは矢を番えている兵士たちの存在に気づくと慌てて回避行動を取ろうとした。しかし、時既に遅く、放たれた矢が次々と天馬騎士へと突き刺さっていく。
天馬騎士が地上へ墜落していく中、更に追い打ちをかけるように歩兵部隊が複数方向から騎手たちを取り囲む。地上へと落下した天馬は体を地面に打ち付けたらしく、騎手が鞍から投げ出される姿が遠目に見えた。
これで降伏してくれればいいんだけど――リンハルトはそう願いながら戦況を観察する。
天馬を失い、残された騎手たちはそれぞれ剣を抜いて地上の兵士と切り結んでいた。
数では圧倒的に劣り、天馬という最大の武器を失ってもまだ戦うのか――それは『誇り高き忠義の騎士』として正しい姿なのかもしれないが、リンハルトにとっては理解しがたいものだった。
「……皆、まだ警戒は解かないように。あまり眠れてないと思うけど、もう少し頑張ってほしい」
リンハルトは兵士たちに声をかけながら、今後の戦況について思案する。
敵はまだ諦めていないのか、武器を手放そうとしない兵士が多く見受けられた。彼らが降伏をよしとせず戦い続けるつもりなら、こちらも攻撃の手を緩めず徹底的に叩き潰すしかないだろう。
――戦争は嫌だな。
リンハルトは幾度となく繰り返してきた想いをまた反芻する。
エーデルガルトのやり方では多くの血が流れることは理解していたし、彼女の理想のためには戦争が避けられぬものだということも理解している。それでも、やはり人が殺し合うという状況に嫌悪を抱かずにはいられなかった。
いまはただ、迅速に戦争を終結させ、これ以上の血が流れないよう善処するだけだ。
リンハルトは魔道部隊に指示を出すと、自らも魔法を放つべく魔力を練り始めた。
***
獣の咆哮のような轟音がフェルディア城を震わせた。
城の外郭で戦闘を続けていたカスパルは思わず足を止め、轟音が聞こえたほうへと視線を向ける。炎が立ち上る中庭には、既にエーデルガルトが率いる覇骸隊が陣形を成して攻め込んでいた。
そして、彼らが取り囲んでいるもの――レアがいたはずのそこには、美しき白き竜が佇んでいた。
人間に姿を変える竜族の話を、カスパルも耳にしたことがある。昔はおとぎ話の類だと思っていたが、人間が魔獣と化す姿を幾度となく目にしたいまとなっては、あれがレアであってもおかしくないという事実を素直に受け入れることができた。
竜はエーデルガルトの号令に呼応するように咆哮し、その口から炎を吐き出す。
炎が中庭を焼き尽くす中、エーデルガルトは自ら先頭に立って白き竜へと斬り込んでいった。それを援護するようにベレトが天帝の剣を振りかざし、蛇腹状の刃が弧を描きながら宙を舞う。
――その光景に気をとられるあまり、カスパルも部隊のほとんどの者も、背後から迫り来る気配に気づくのが遅れてしまった。
突然背中に衝撃が走り、カスパルは地面に膝をつく。射られたのだ、と彼は瞬時に判断した。それによって周囲の仲間たちも敵襲に気が付き、膝をついたカスパルを庇うようにして隊列を整える。
どうやら、鋸壁から城外に射掛けていた弓兵部隊が城内の守備に回ったようだ。
矢は鎧を貫通して肩へと突き刺さっていた。鏃を抜けば大量出血は免れないだろう。カスパルは背中に走る鈍い痛みに顔をしかめながらも、矢が刺さったまま手斧を投擲して応戦した。
「うおおおおっ!」
カスパルの投げつけた手斧が弓兵の頭蓋を捉える。手斧の直撃を受けた弓兵は血と脳漿が混ざった黄色い体液を撒き散らしながら倒れ、それを前にした周囲の兵士たちが目に見えて怯んだ。
カスパルはその隙を見逃さず、斧を構えて突っ込んでいく。
敵が間合いに入るや否や手近な兵士を斬り伏せ、もう一人の兵士が繰り出した槍の穂先を斧の柄で受け流して懐に入り込む。そのまま兵士の腹へ膝蹴りを叩き込み、体勢を崩したところで首を刎ねた。
――指揮官はどいつだ?
カスパルは兵士達と共に応戦しながら、周囲を窺って弓兵部隊の指揮官を探した。将校であれば、階級がわかるようにほかの兵士たちとは異なる恰好をしているはずだが――
「……あいつか」
カスパルは弓兵部隊の指揮官を遠目に捉える。少年にも見える男はおおよそ威厳や威圧感とは縁遠いように思えたが、士官服らしき外套を羽織っているので間違いはないだろう。
カスパルは身を低くして指揮官らしき男に向かって駆け出す。それを察した王国軍の兵士たちが行く手を阻むように立ち塞がり、帝国軍の兵士もまたカスパルに続いて切り込んでいく。
「よしっ! そのまま押し切れ!」
カスパルは兵士たちを鼓舞しながら前進し、指揮官と思しき男へと斧を振り上げた。男は咄嗟に弓を構えて迎撃しようとするが、カスパルのほうがわずかに早い。
「ぐっ……!」
振り下ろした斧は男の弓を捉え、真っ二つにへし折った。
男は体勢を崩してその場に膝をつく。その拍子に頭部を守っていた覆いが外れ、隠されていた顔が露になった。
カスパルはそのまま男の頭を目掛けて斧を振り下ろそうとしたが――視界に入ったその顔に見覚えがあったために、思わず狙いを外してしまった。
僅かに逸れた斧の刃は男の頭部を避け、鈍い音を立てて甃へと叩きつけられる。
「お前……アッシュ、か?」
カスパルは動きを止めて男に問いかけた。
男――アッシュは地面に膝をついたまま、苦しげに顔を歪めてカスパルを見上げる。その表情には怒りや憎しみといった感情はなく、ただ驚きと困惑の色が滲んでいた。
「……っ……君は……カスパル……なのか?」
アッシュは目の前の帝国将がすぐにカスパルであると認識できなかったらしく、逡巡した様子を見せてから口を開く。
カスパルとアッシュは取り立てて親しいわけではなかったが、士官学校のころは訓練所や食堂でしばしば顔を合わせたことがあった。
同じく斧術を得意とすることもあって講義を共に受けることもあり、ほかの青獅子の生徒たちより交流があるほうだったが――だからこそ戦場で顔を合わせなくはなかった。
「アッシュ殿!」
二人が顔を見合わせてしばし停止していると、王国兵の一人がカスパルに向かって斬りかかってきた。
カスパルは咄嗟に斧を構え直す。だが、体勢を崩したまま斬撃を受けたために衝撃を受け流しきれず、斧はカスパルの右手から弾き飛ばされてしまった。
追い打ちをかけるように王国兵が剣を振りかざす。
カスパルは舌打ちをしながらなんとか回避しようとするが、敵味方が入り乱れる乱戦の最中とあって思うように動くことができない。
「ぐっ……!」
回避が間に合わずに右腕を切り裂かれて鮮血が飛び散る。幸い骨を断たれるには至らなかったが、痛みで一瞬動きが止まったところを狙いすましたかのように別の敵兵が斬りかかってきた。
避けられない――そう判断したカスパルは咄嗟に拳を握り込んで、向かってきた兵士の顔面に渾身の一撃を叩き込んだ。金属製の籠手頭が兵士の顔面を捉え、鈍い音を立てて鼻の骨を砕く。
「うおりゃああ!」
カスパルはそのまま力任せに籠手を振り抜いて兵士を殴り飛ばす。武器を持たない相手の思わぬ反撃に怯んだのか、王国兵は手で顔を覆いながら数歩後ろによろめいた。
カスパルはがら空きになった相手の腹部に続けて拳を叩き込む。内臓を潰された兵士は口から吐瀉物を吐きながらその場に倒れ込み、数秒後には動かなくなった。
その勢いに乗じ、ほかの帝国兵たちも攻撃に転じるべく前に踏み出す。
しかし、カスパルは「待て!」と声を張り上げてそれを制した。
乱戦状態になっていた両軍は互いに隊列を整え、睨み合う形で対峙する。カスパルも改めてアッシュに向き直り、浅い呼吸を繰り返して体を落ち着かせてから口を開いた。
「……アッシュ、降伏してくれねえか? エーデルガルトは降伏するなら命までは奪わないって言ってる。いまならまだ生き残ってる兵士たちを死なせずに済むんだ」
アッシュは義理の兄をセイロス教会に処刑されており、義理の父もその仇討ちとして勝てない戦を挑んで死亡している。
カスパルの胡乱な記憶にも、そのときの出来事はしっかりと刻み込まれていた。アッシュには、教会に叛意を抱く理由があるのだ。
「それは……できません」
カスパルの言葉にアッシュは唇を嚙みしめる。
顔を上げたアッシュの瞳に宿っていたのは、悲観や戸惑いではなく怒りと憎しみだった。
「帝国軍は城下町に火を放った……民間人の犠牲も気にせず……それなのに、いまさら身柄の安全を保証するなんて言われても信じられません!」
アッシュはカスパルを睨みながら言い放つ。
その言葉に困惑したのはカスパルのほうだった。
斥候の情報によれば、フェルディア城に火を放ったのレアのはずだが、王国軍の人々はそれを把握していないのか?
いや、それはそうか――とカスパルは思い至る。
王国軍と協力体制にあるセイロス教会がその真実を王国軍に伝える利益などないし、むしろ帝国軍の策略であると流布したほうが都合がいいだろう。
「……信じられないかもしれねえが、城下町に火を放ったのはレア様だ。いや、正確には、指示を出したのはレア様で実行に移したのはカトリーヌさん……こっちの斥候が確認してる」
「そんな……まさか……」
アッシュは驚愕に目を見開くが、すぐにそれはどこか諦念を滲ませる表情へと変化した。
「……五年前……聖墓の戦いからレア様はおかしくなってしまった……。兵士たちも怖がって、帝国に亡命する人もいた」
「ああ、そうだな。そいつらはいま帝国軍に協力してくれてる」
アッシュの話す内容はカスパルの記憶にもあるものだった。
レアが聖墓で炎帝としてのエーデルガルトと邂逅したのちに、何かに取り憑かれたように人が変わったという話は耳にしている。
カスパルの記憶の中にあるレアという女性は、得体の知れない何かではあったが聡明で慈愛に満ちた人物だった。
だが、聖墓での戦いがきっかけなのか、あるいはベレトが彼女に刃を向けたのがきっかけなのか――聖母であったレアはその日からいなくなったのだ。
しかし、それはいろいろな意味で都合がよかったのかもしれない。
『慈愛に満ちた聖母』という顔のまま死亡したのでは後のエーデルガルトの統治の障害となるだろうし、セイロス教会への信仰心が兵士たちの手を鈍らせることもあるだろう。
あるいは、エーデルガルトは予め知っていたのか――それは考えたところで答えの出ない問答だ。カスパルはそう判断し、レアについていま考えるのはやめることにした。
「でも……やっぱりできません。みんなが王国のために戦ったのに、僕だけがのうのうと生き延びるなんて……。きっと、降伏して生き延びたとしても僕は後悔します。だから……」
アッシュはカスパルに向き直り、壊れた弓の代わりに斧を構える。
「僕は……最後まで戦います」
それは信念なのか、あるいは諦念なのか――主も信仰対象も失った騎士を突き動かすものは、死者たちの遺した『想い』という名の呪縛なのかもしれない。
「……わかった。なら、仕方ねえな」
これ以上の言葉は無用だと判断したカスパルは、部下から渡された斧を手にして構え直す。
未だ炎が舞う外郭で、両者は静かに睨み合う。
そして、一陣の風が吹いた瞬間――カスパルはアッシュへ向かって間合いを詰めにかかった。カスパルの振りかぶった斧とアッシュの構えた斧がぶつかり合い、激しい金属音が響き渡る。
「アッシュ、お前の本気はその程度じゃねえだろ? 全力で来いよ!」
カスパルは体重をかけて力任せに斧を押し込む。アッシュもそれに対抗するように押し返そうとするが、単純な力比べでは筋肉量で勝るカスパルのほうが有利のようだった。
「ぐっ……!」
やがてアッシュの体勢が崩れ、その隙を見逃さずカスパルは斧を振り抜いて相手の得物を弾き飛ばす。
そこで決着がついたかと思われたが――アッシュは崩れた体勢から足払いを仕掛けてカスパルを転倒させたのだ。
その隙にアッシュは斧を拾い、反撃に体勢を崩したカスパルの腹部に目掛けて斧を振り下ろす。カスパルは咄嗟に体を捻って回避を試みるが、斧の刃はカスパルの胴鎧を掠めた。
鎧越しに衝撃を受けたカスパルは、顔を顰めながら立ち上がって体勢を立て直そうとする。アッシュはなおも攻撃の手を緩めず、最小限の動作で斧を振りかぶると今度はカスパルの左腕を斬り裂いた。
二の腕を刃が掠めて鮮血が飛び散る。だが、カスパルもやられてばかりではなかった。カスパルは振り下ろされた斧を腕の皮一枚で受けると、それが再び振り上げられる前に斧の柄を掴んだのだ。
「なっ……!」
「へっ……ようやく捕まえたぜ」
カスパルは片手で斧の柄を引き寄せながら、体勢を崩したアッシュの腹部に膝蹴りを叩き込む。腹部への衝撃にアッシュは斧を手放し、そのまま蹲るように倒れ込んだ。
カスパルは奪取した斧を放り投げ、すかさず自分の斧を構えてアッシュへと振りかざす。
頭か、首か。一撃で致命傷を与えて苦痛を長引かせないようにする――それがカスパルなりのアッシュへのせめてもの友誼だった。
振り下ろされた斧の刃が、鈍い音を立てて甃へと叩きつけられる。
黒鉄が断ち切ったのは、友だったのか、想いだったのか――
夢の跡
目が覚めた時、リンハルトは寝台で寝かされていた。戦争が終結したとの報告を受けた後、意識を失ったまま駐屯地まで運び出されたらしい。
天馬騎士の返り血を浴びていた肌は清められ、砂塵にまみれた法衣も清潔な寝具に取り替えられていた。リンハルトが血塗れの寝台で目を覚ますことがなかったのは、おそらくは医務室の主の温情だろう。
ほかの将兵たちは、敗残兵の捕縛や被害状況の確認などに駆り出されて寝る暇もないはずだ。リンハルトがこうして寝かされているのは特待と言って差し支えないわけだが――憂慮せずとも、あの優秀な父親が彼の仕事を肩代わりしてくれていることだろう。
終戦まで付き合ったのだから、もう眠っても許されるはず。
そんな言い訳をしながらリンハルトが再び瞼を下ろそうとしたとき、天幕の入口が開いて見慣れた甲冑姿の青年が姿を現した。
「よお、リンハルト! ぶっ倒れたって聞いたけどなんともなさそうだな」
カスパルは軍靴の踵で地面を蹴りながら、リンハルトの寝かされている寝台へと歩み寄ってくる。
「お前、一週間も眠りこけてたんだぜ? 魔法で眠らされてるんじゃないかってみんな心配してたぞ。まあ、マヌエラ先生が大丈夫って言うから大丈夫なんだろうけどよ」
「そう。僕、そんなに寝てたんだ」
せいぜい半日ほど眠っていた程度の認識だったリンハルトは、幼なじみの口振りから自分がかなりの時間昏睡していたことをようやく認識した。
「まあ、やるべきことはお前が寝てる間にほとんど終わっちまったよ。そろそろこの駐屯地も引き払って、本隊ごと帝都に戻るみたいだ」
カスパルは寝台の横に置かれた椅子に腰をかけながらリンハルトの顔を覗き込む。激戦が続いたせいだろうか、数週間ぶりに見た幼なじみの顔はいくぶんか痩けていた。
前線部隊を率いるカスパルが受ける肉体的、精神的な負担は後方支援部隊であるリンハルトの比ではないはずだが――それでも、彼はいつだってこうしてリンハルトの心配をしてくれる。
「体はなんともないのか?」
「うん、怪我もないし、たぶんどこも悪くないと思うよ。魔力を使うと内側から消耗するから、回復に時間がかかったんだろうね」
「そっか。ならよかったぜ」
カスパルは安堵の息をつくと、リンハルトの寝かされた寝台に上体を預ける。そして、脱力したようにそのまま突っ伏してしまった。
「カスパル?」
「……お前が倒れたまま目覚めないって聞いたときは本当に焦ったんだぜ? このまま目を覚まさなかったらどうしようって」
「うん……心配かけたね」
カスパルの重みを胸に感じながら、リンハルトはその温もりがまだ存在することに安堵する。
屋内にいるときでさえ、カスパルの周りはいつだって明るく輝いているように見えた。彼のそばにいると不思議と暖かさを感じられて、それは心地よい眠気となってリンハルトを包み込んだ。二人が出会ってからずっと、カスパルはいつもそうだった。
「好きだよ」
ふと口をついて出た言葉に驚いたのはリンハルト自身だった。
それはずっと前から自分の中に在り続けていた言葉だったのかもしれない。だが、それを言葉にしたのは初めてだった。何かがきっかけで箍が外れたように、その言葉が喉をついて溢れてきたのだ。
「……なんだよ急に? そんな改まって」
カスパルも突然のリンハルトの言葉に驚いているのか、突っ伏していた顔をがばりと上げる。
「……なんだろうね。なんかいま、急に言いたくなっちゃって」
「なんだよそれ」
カスパルはおかしそうに笑いを噛み殺しながら再び寝具に上体を預けた。
「なあ、リンハルト」
「うん?」
「……オレも、お前のこと好きだぜ」
照れているのか、カスパルは顔を伏せたままぶっきらぼうに告げる。しかし、髪の隙間から覗く耳の赤さが彼の心情を雄弁に物語っていた。
その反応が愛おしくて堪らなくなり、リンハルトは上体を起こしてカスパルの頬に手を添える。そのまま優しく顔を自分に向けさせれば、カスパルはリンハルトの意図を察して目を伏せた。
軽く触れただけの口付けは甘美な陶酔を齎し、二人はしばらく言葉を失ったまま唇を重ね合わせ続ける。
やがて自然の流れのように体を絡ませ合いながら寝台へと縺れ込んだ二人は、戦場の残滓が漂う天幕の中で深く互いを求め合った。
***
燭台に立てられた蝋燭の炎が隙間風に煽られ、二人の間に淡い影を投げかけた。
リンハルトはカスパルの背中のくぼみに手を滑らせ、掌全体で慰撫するように撫で上げる。そうするうちにカスパルの呼吸がゆっくりと和らぎ、体の強張りがほどけていくのを指先に感じた。
カスパルの肌から香る汗と砂埃の匂いが鼻腔を満たすたび、彼の存在が自分の腕の中にあることを強く意識させられる。
リンハルトは鼻から抜けるような吐息に耳を傾けながら、カスパルの肌を静かに探り続けた。その手を脇腹まで滑らせたとき、指先に触れた硬い感触にリンハルトはぴたりと手を止める。
それは切創のようだった。傷口は既に塞がっているものの、皮膚が白く変色して隆起している。おそらく古い傷跡ではないだろう。
「……また怪我をしたのかい?」
リンハルトは指先で傷痕をなぞり、それから掌でそっと押さえた。掌の下で、傷の名残がどくりと脈打つのを感じる。
「ああ、これか。ちょっとへましちまってな。まあ、怪我で済んでよかったよ」
「痛くない?」
「ああ、なんともないぜ」
リンハルトは傷跡を労わるようにそっと撫で、それから少し魔力を込めて治癒の魔法をかけた。ほんのりと暖かい魔力の波がカスパルの肌を滑り、傷跡をゆっくりと癒してゆく。
「もう治ってるよ」
カスパルはリンハルトの手の上に自分の掌を重ね、軽く掴んで脇腹から引き剥がす。
「魔法を使うと疲れるんだろ? オレは大丈夫だって」
「君の『大丈夫』はあんまりあてにならないからさ」
リンハルトはカスパルの体を自分の体に寄りかからせるように抱き寄せ、その首筋に唇を押し当てた。首筋を舌でなぞり上げて耳の裏に鼻を押しつけると、汗や整髪料の匂いに混じってカスパル本来の体臭がふわりと香ってくる。
「……そうだな、心配かけて悪いと思ってるよ」
「本当だよ。君はいつも無茶をして……」
リンハルトはカスパルの耳に柔らかく歯を立て、舌で耳殻をなぞっていく。カスパルの体が微かに身じろぎし、薄く開いた唇の隙間からくぐもった喘ぎが漏れた。
背中の中央から腰にかけて指を滑らせているうちに、やがて背骨の隆起に行き当たる。脊椎を数えるように下から上へと撫でてやると、カスパルの背がくすぐったそうに仰け反った。
「くすぐってえよ」
「……くすぐったいだけ?」
くつくつと喉を鳴らすカスパルに、リンハルトは意地悪く問いかける。
カスパルの右目に優しく口付けをすると薄い瞼がぴくりと震えた。もう片方の目にも口付け、次に額にも口付けたあとは、鼻と鼻を軽く触れ合わせて最後に唇を軽く食む。
唇が離れた途端、今度はカスパルが悪戯を思いついたような表情を浮かべた。カスパルは自身の唇をぺろりと舐めて湿らせ、舌先を覗かせながらリンハルトの下唇を甘噛みしてくる。
「……どこで覚えてきたの?」
「お前、オレが何も知らないと思ってんだろ?」
「……うん」
リンハルトが素直に頷くと、カスパルは得意げな笑みを浮かべて再びリンハルトの唇を塞いだ。今度は舌を差し込んで上顎をねぶりながら、ときおりリンハルトの舌を自分の口内へ誘うように吸い付いてくる。
存外に積極的なカスパルに内心驚きながらも、リンハルトはそれに応じるように舌先を擦り合わせた。カスパルの熱い舌の感覚と、呼吸の合間に零れる吐息が感性をくすぐり、リンハルトの内に燻る欲望に薪を焚べていく。
「ん、ふ……っ」
互いの舌が絡み合い、唾液が混ざり合う音が頭蓋に反響する。その音とカスパルの舌の感触に陶酔しきったリンハルトは、彼の後頭部に手を添えて更に深く口付けた。
舌の裏筋を舐め上げ、尖らせた舌先で歯茎をなぞる。そのまま上顎もくすぐってやれば、カスパルはリンハルトに縋りつくように上体を密着させてきた。
名残を惜しみながら唇を解放すると、二人の間に銀色の橋が架かった。それはすぐにぷつりと切れて、顎から首筋へ雫となって滴り落ちてゆく。
リンハルトはそれを追うようにカスパルの首筋に口付けをし、鎖骨から胸元へと舌先を滑らせた。カスパルはくすぐったそうに身をよじりながらも、リンハルトの愛撫に身を委ねている。
胸の膨らみに舌を這わせ、その先端を口に含むと筋肉質な体がぴくりと跳ねた。舌先を固く尖らせて先端を転がせば、カスパルの喉から上擦った声が溢れ出る。
それを恥じらうようにカスパルの手が彼自身の口元を覆うのを見上げながら、リンハルトはもう片方の胸を手で覆って指先で優しく揉みほぐしていく。
上質な筋肉は力んでいないときはやわらかいと聞くが、なるほど確かにやわらかい。カスパルの胸筋が掌の中で自在に形を変える様子を眺めながら、リンハルトはその弾力を堪能する。
「なあ、それ……その、あんまおもしろくねえだろ?」
リンハルトが胸への愛撫を続けていると、やがてカスパルが耐えかねたように声をかけてきた。それが照れ隠しであることが手に取るようにわかり、リンハルトはふっと笑みを零す。
「僕は楽しいけどな。こうして君に触れているのは」
リンハルトは冗談めかしてそう答えながら乳嘴に軽く歯を立る。するとまた甘い吐息が漏れそうになったのか、カスパルは唇を噤んでくぐもった声を上げた。
リンハルトは唇で先端を転がしながら周囲の膨らみをなぞるように舌を這わせ、同時に脇腹や臍の周囲を撫で回す。それらはカスパルにとってはこそばゆい刺激らしく、彼はときおり笑い声にも似た吐息を漏らしていた。
カスパルの片手は寝台の敷き布を掴み、刺激に合わせて肉刺だらけの指が布の表面を引っ掻いている。リンハルトはその手をそっと握って自らの肩に導こうとしたが、カスパルはかぶりを振ってそれを拒絶した。
「引っ掻いちまったら傷になるだろ」
「いいよ、そんなの」
リンハルトは構わずにカスパルの手を取って自分の背中に回させる。そして再び唇を胸へ寄せ、すっかり固く凝った乳嘴を唇で扱いた。
「あっ、う……リンハルトっ……!」
舌先で小刻みに弾いては押し潰すように舐め上げ、軽く歯を立てて甘噛みをする。そのたびにカスパルの体が跳ね上がり、止め処なく溢れる嬌声がリンハルトの鼓膜を甘く震わせた。
リンハルトの背中に添えられたカスパルの硬い手が、陶磁器のようにつるりとした肌を指の腹で掻く。そのこそばゆさに背筋を震わせながら、リンハルトは愛撫を続ける唇を徐々に下方へと滑らせていった。
腹筋の膨らみを辿り、臍の中に舌先を差し入れてぐるりと掻き回す。脇腹をゆっくりと撫で上げ、腰骨をなぞるように指先を下方へと滑らせ、腰椎から仙骨へ、更には尾骶骨へと指を走らせると、カスパルはひくりと喉を震わせて上体を反らした。
「……嫌かい?」
リンハルトの問いかけにカスパルは首を左右に振る。
「……嫌じゃ、ねえよ。けど……こういうのはちゃんと、言ってくれよ。オレだって覚悟決めてこうしてんだぜ?」
カスパルの真っ直ぐな瞳と言葉に射抜かれ、リンハルトは言いようのない気恥ずかしさを覚えた。
リンハルト自身は恋愛対象の性別を問わない質ではあるが、カスパルはおそらくそうではないのだろう。その可能性を失念していたわけではないものの、彼は自分を受け入れてくれるだろうという奢りはあったのかもしれない。
「そうだね……ごめん」
リンハルトは自身の性急さに呆れながら、愛撫の手を止めてカスパルに向き直る。
「……君を抱きたいんだ。いいかな?」
リンハルトがカスパルの瞳を見据えながら告げると、彼は小さく頷いて返した。そして上体を起こし、寝台の脇にかけてあった外套に手を伸ばす。
「こういうこともあるかと思って、一応な……」
気恥ずかしそうに言いながらカスパルが取り出したのは香油の入った小瓶だった。
リンハルトはそれを受け取りつつ、自分がいかに彼を無知だと思い込んでいたかを実感させられて苦笑する。
カスパルに愛撫を施しながら、香油を用意していないがどうするか、カスパルなら整髪料として向日葵油を携行しているだろうしそれを借りるか――などと危惧していたわけだが、どうやら無用な心配だったらしい。
「用意周到だね。いつも持ち歩いてるのかい?」
「……オレだっていろいろ考えてんだよ!」
リンハルトの指摘にカスパルは顔を真っ赤に染めながら抗議する。リンハルトがそれを宥めるべく口付けると、カスパルは絆されたように口を噤んだ。
リンハルトはカスパルの腰のくびれを掌で丹念になぞり、そのまま双丘を両手で包み込むように揉みしだく。
固く引き締まって弾力のある双丘は、リンハルトの指を押し返すようにその形を歪ませる。それを押し戻すように何度も繰り返していると、やがて指先が尻のあわいへと滑り込んだ。
「……っ!」
カスパルが息を呑む音が耳に届き、リンハルトの背に添えられた手に力が込められた。
リンハルトは安心させるようにカスパルに口付けて舌を絡め、意識をそちらへ向けさせる。そして香油を掌の上に零し、体温で温めてから後孔にそっと指先を触れさせた。
指の腹で円を描くようにしてそこをなぞり、刺激で強ばった窄まりを優しく揉みほぐす。皺の一本一本にまで潤滑油を塗り込めながら丁寧に按摩すると、次第に柔らかく解れてきたそこがリンハルトの指先を啄み始めた。
「……指、入れるね」
リンハルトはカスパルの様子を窺いながら中指を第一関節まで挿し入れ、ゆっくりと出し入れして肛腔の拡張を試みる。それを繰り返しながら徐々に指を奥に進め、根元まで挿入したところで一度手を止めた。
「痛い?」
「……大丈夫だ」
カスパルは汗ばんだ額をリンハルトの肩口に押し付けながら答える。その体勢のままリンハルトの体臭を嗅ぐように鼻で大きく息を吸い、ゆっくりと口から吐き出して緊張をほぐしているようだった。
リンハルトは香油を足しながら指の抽挿を繰り返し、カスパルの後孔を慣らしてゆく。
発達した筋肉が異物を押し出そうと指先を包み、内壁を蠢かせては押し戻そうとする。リンハルトはそれを宥めるように関節を曲げ伸ばししながら、熱い粘膜を指の腹で擦り上げた。
リンハルトにとっての大きな誤算は、昏睡しているあいだに自分の爪が思いのほか伸びていたことだ。カスパルの内壁を傷付けぬように慎重に押し進めていはいるが、油断すると繊細な粘膜を引っ掻いてしまいそうで気が気ではない。
「カスパル……もう少し力を抜いてくれるかい?」
「ん……」
リンハルトが懇願すると、カスパルは小さく頷きながら深呼吸をした。その呼吸に合わせて内壁の締め付けも緩み、リンハルトはほっと安堵の息をつく。
二本の指で内壁を押し広げながら抽挿を繰り返していくうちに、指先にしこりのような感触が触れた。リンハルトはそれが何であるかを瞬時に察し、急激に刺激を与えないよう注意しながらその場所を指の腹で撫で付ける。
「っ、あ……!」
カスパルの体がびくりと跳ねると同時に、リンハルトの首に回された手に力が込められた。
「ここ、気持ちいい?」
「わかんねえ……なんか、変な感じがする……」
カスパルは困惑した様子で眉を寄せ、熱に浮かされたような吐息を漏らす。
「たぶん、慣れると気持ちよくなると思うんだけど……もう少しほぐすね」
リンハルトは指の抽挿を再開し、内部を拡張すると同時に指先でその部分を緩慢に刺激した。しこりを指の腹で優しく押し潰し、円を描くように撫でさすり、ときおり軽く叩いて刺激を与える。そのたびにカスパルは体を痙攣させながら甘い吐息を漏らした。
「あっ、や……り、リンハルトっ……!」
カスパルは戸惑いを浮かべた瞳でリンハルトを見つめる。その双眸は涙に潤んでおり、血色の良い頬が上気して更に赤く染まっていた。
「大丈夫だから……僕に任せてほしいな」
カスパルが快感を得ていることを確信し、リンハルトは指の動きを速めてゆく。
早くこの中に入りたい。そんな欲望が頭をもたげるのを抑えながら、リンハルトはゆっくりと時間をかけてカスパルの後孔を拡張していった。
「ん、んんっ……」
カスパルはリンハルトの首筋に顔を埋めて荒い呼吸を繰り返す。後孔はもうすっかり解れていて、三本に増やした指も難無く抽挿できるようになっていた。
「どうかな……? まだ苦しい? それとも痛い?」
「いや、平気だ……もう、大丈夫だと思うぜ」
リンハルトは根本まで沈めた指を動かしながらカスパルに問いかける。
カスパルは荒い呼吸の合間にそう答え、リンハルトの後頭部に手を回してその髪をくしゃりと撫でた。
カスパルの言葉にリンハルトは頷き、中に埋め込んでいた指をそっと引き抜く。すると窄まりが指に吸い付くように締め付けてきて、その心地よさに思わず呻くような吐息を漏らした。
リンハルトは寝台の脇の卓上に置かれた水差しから水を一口含み、カスパルに口付けて口腔へと流し込む。カスパルは唇を開いてそれを受け入れ、体温で温まった水を喉を鳴らして飲み込んだ。
「……お前のほうが喉乾いてんだろ。病み上がりなんだし」
「君が緊張してるかなと思って」
「それはまあ……そうだけどよ」
リンハルトは小さく笑いながら、再び口に水を含んでカスパルに口付けた。
互いの胸を密着させて深く口付けを交わすと、触れ合った部分から鼓動の音が伝わってくる。早鐘を打つリンハルトの鼓動をに気づいたのだろう、カスパルは唇が離れたあと「お前だって緊張してるじゃねえか」とからかってきた。
「そりゃあね」と苦笑しながら、リンハルトはカスパルの肩をそっと押して寝台に横たわらせる。それから自分も身を乗り出して寝台に手をつき、カスパルに覆い被さって顔を寄せた。
「いくよ、カスパル」
リンハルトが真上から問いかけると、カスパルは無言のままこくりと頷いた。
鍛えられた両脚を割り開き、ぽってりと膨らんだ後孔に膨張した陰茎の先端をあてがう。そのまま先走りで濡れた先端を何度か擦りつけ、粘液を纏わりつかせてから慎重に亀頭を沈み込ませた。
「う……っ」
カスパルの口から苦しげな呻き声が漏れると同時に、リンハルトの腰にも圧迫感が伝わる。それに罪悪感を覚えつつも、リンハルトは慎重に腰を進めていった。
熱くぬめった内壁がリンハルト自身をきつく締め付ける。その刺激で達してしまいそうになるのを堪えつつゆっくりと挿入していくと、やがて互いの下生え同士が触れ合った感触がした。
「痛むかい?」
「……ちょっとな」
リンハルトは呼吸を整えながらカスパルの様子を窺った。薄膜が張った空色の双眸がリンハルトを捉え、その口元が微かに緩む。
「けど……なんてことないぜ」
「無理しないで。慣れるまでは動かないから」
リンハルトはカスパルの額に張り付いた前髪を指で払い、宥めるように彼の頬を優しく撫でる。するとカスパルはくすぐったそうに目を細めて笑ったあと、リンハルトの背に腕を回して抱き寄せてきた。
「へへっ……」
「……何?」
突然の行動にリンハルトが面食らっていると、カスパルはリンハルトの肩に顔を埋めたまま呟く。
「お前のそんな顔、初めて見たかもしれねえな。お前のことはたくさん知ってるつもりだったけどよ……まだ知らない面があるんだなって」
「……ふふっ、まだあるかもしれないよ?」
リンハルトは苦笑しつつカスパルの髪を撫でた。存外にやわらかいその感触を楽しみつつ手を滑らせ、耳殼に触れたあとは耳朶を弄ぶように軽く揉む。
「んっ……くすぐってえよ」
カスパルはむず痒そうに体を捩らせたのちに、リンハルトの背に回した腕に力を込めた。
「なあ……もう動いていいぜ」
「……本当に大丈夫?」
「ああ、平気だ。だから……」
カスパルはリンハルトの耳元に顔を寄せて吐息混じりに囁く。
「お前の好きにしてくれよ」
「……っ!」
耳元で囁かれた言葉の甘やかさに、リンハルトは脳髄が蕩けるような錯覚を覚えた。
衝動的に目の前の唇に噛み付くと、カスパルはそれを受け入れるように口を開いてリンハルトの舌を誘い込む。そのまま互いの舌を深く絡ませ合いながら、リンハルトはゆっくりと腰を動かし始めた。
「んっ、ふっ……ぅ」
リンハルトは先ほど見つけたしこりを陰茎の先端で探りつつ、カスパルの内壁を優しく擦り上げる。
窄まりを押し広げ、腰を引くたびに粘膜同士が擦れ合う感覚にぞくぞくと肌が粟立つ。それはカスパルも同じようで、陰茎を引き抜こうとするたびに内壁が切なげに収縮を繰り返した。
「っ……痛い?」
リンハルトの問いかけにカスパルは首を横に振る。
「さっきから心配しすぎだぜ。オレはそんなにやわじゃねえぞ?」
「……君は重傷を負っていてもいつも『このくらいどうってことねえ』って言うからね。心配にもなるよ」
リンハルトが苦笑しながら言うと、カスパルはばつが悪そうに視線を逸らした。
「それは……まあそうだな……」
「だから、痛いときはちゃんと言ってほしいな」
リンハルトはカスパルの髪を撫でながらゆっくりと抽挿を再開する。カスパルはそんなリンハルトに向き直ると、小さく頷きを返してそれを受け入れた。
「んっ……あ……」
内壁がほぐれてきた頃合いを見計らい、リンハルトは抽挿の速度を上げていく。次第にカスパルの声から苦痛の色は消え、代わりに快楽の色が見え隠れするようになっていた。
「気持ちいい?」
「んっ……いい……」
カスパルは蕩けた表情でこくりと頷き、リンハルトの首に腕を絡めてぎゅっとしがみつく。しかしその力にはいくらかの加減が感じられて、こんな状況であっても気を遣うカスパルにリンハルトはたまらない愛おしさを感じていた。
「あっ……んっ、ん……」
すっかり屹立した陰茎で腸壁を擦りながらしこりを押し潰すたびに、カスパルは体を震わせて甘い声を漏らす。その反応があまりにも可愛らしくて、リンハルトは何度も同じ場所を突き上げた。
「はっ、あっ! リンハルト……そこっ……!」
「ん……ここがいいの?」
「ぅあッ……! そ、こぉっ……!」
リンハルトは小刻みに抽挿を繰り返し、雁首にひっかけるようにしてしこりを擦る。カスパルは白い喉を晒して身悶えながら、リンハルトの腰を挟んでいる太腿をぴくぴくと震わせた。
「あっ、あ……ッ! リンハルトっ……!」
「……っ、カスパル……」
カスパルが上擦った声で自分の名を呼ぶたびに、リンハルトの背筋にぞくぞくと甘い痺れが走る。それはまるで麻薬のようにリンハルトの脳髄を駆け巡り、思考を甘く蕩けさせていった。
「カスパルっ、僕そろそろ……」
リンハルトが切羽詰まった声で限界を訴えると、カスパルはこくこくと小さく首を縦に振る。それから背中に回した腕でリンハルトを抱き寄せ、耳元に口を寄せて低く囁いた。
「いいぜ……オレも、もうっ……」
「……っ」
その一言が引き金となり、リンハルトは一気に抽挿の速度を速める。それと同時にカスパルの陰茎を握り込み、先走りで濡れそぼった竿を性急に扱き上げた。
「あッ……! リンハルト、それっ……あぁッ……!」
汗で滑る互いの肌がぶつかり合って鈍い音を立てる。強烈な快感にカスパルは咎めるような声を上げるが、それも次第に意味を成さない嬌声に変わっていった。
リンハルトはカスパルの両脚を肩に担ぎ、亀頭で腸壁の奥深くにある窄まりをごりごりと押し潰しながら抽挿を繰り返す。カスパルはがくがくと体を震わせ、だらしなく開かれたままの口から唾液を滴らせた。
このまま中に出していいのだろうか? そんな考えが一瞬リンハルトの脳裏を過ぎるも、それを遮るようにカスパルの脚がリンハルトの体を引き寄せる。そんなカスパルを引き剥がす気はとうてい起きず、リンハルトは観念して腰を深く押し付けた。
「カスパル、ごめっ……中に出すよッ……!」
「んっ、んうっ……!」
カスパルの体がびくんっと大きく跳ねた瞬間、リンハルトの陰茎を包み込む粘膜が激しく収縮する。それに誘われるようにしてリンハルトは下肢を密着させ、熱い奔流をカスパルの中へと注ぎ込んだ。
「っ、はっ……」
体の中で燻っていた熱が一気に放出されてゆく感覚に酔いしれながら、リンハルトは最後の一滴までカスパルの中に注ぎ込む。
しばらくして、すべてを出し切ったリンハルトは大きく息を吐いて脱力した。背中に回されていたカスパルの腕がずるりと落ち、くたりと弛緩したそれが寝台の上へと投げ出される。
「大丈夫かい?」
「ああ……平気だ」
リンハルトは汗で額に張り付いたカスパルの前髪を優しく払い、湿った肌に触れるだけの口付けを落とした。
カスパルは目を細めて頷きを返すと、ゆっくりと息を吐いてリンハルトの肩口に顔を埋める。リンハルトはその体を優しく抱き締め、労わるようように背中を撫で摩った。
そのまましばらくの間お互いの体温を感じ合い、やがてどちらともなく唇を重ね合わせる。密着した肌から伝わる互いの鼓動は、まるでひとつになったかのような錯覚をリンハルトに与えた。
長い口付けののちに唇を離し、二人は至近距離で見つめ合う。
その間が気恥ずかしかったのかもしれない。しばらくするとカスパルは照れ臭そうな笑みを浮かべ、リンハルトの肩に顔を埋め直してぐりぐりと額を擦りつけてきた。
「ふふっ……どうしたの?」
「いや……なんかこう、すげえ幸せだなって思ってよ。お前とこうしてるとさ」
「そうだね。僕も同じ気持ちだよ」
頷きながらカスパルの後頭部を撫でると、カスパルは顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。その笑顔につられてリンハルトも思わず笑みを零し、カスパルを真似るように頬を擦り付けた。
「……戦ってるときは目の前の敵のこと以外考えないようにしてるんだけどよ。敵が撤退した後とかふとしたときに、お前は無事かなって考えちまってさ……まあ、お前は賢いやつだから大丈夫だとは思ってるけどよ」
「うん……」
カスパルはリンハルトの肩に頭を預けたまま、彼らしからぬ殊勝さでぽつりぽつりと語り始める。
リンハルトは相槌を打ちながらカスパルの髪を優しく撫で、それとなく言葉の続きを促した。
「だから……その、なんだ。お前とこうしていると安心するっつうか……」
「ふふっ」
「……なんだよ?」
「可愛いなと思って」
リンハルトはカスパルの顔を覗き込み、今度は額に口付けを落とす。瞼、頬と、触れるだけの口付けを順番に落としてゆくと、カスパルはくすぐったそうに目を細めて笑った。
「あんまり嬉しくねえな」
「そうかい? ふふ、ごめんね」
リンハルトは笑いながらカスパルの頬を撫で、首筋へと手を滑らせたのちに彼の体を抱き寄せる。そして再び唇を重ね合わせて何度も啄むと、カスパルはそれに応えるように舌先でちろりと唇を舐めてきた。
唇を離して額を触れ合わせ、至近距離で見つめ合うと自然と笑みが零れた。そしてまたどちらからともなく唇を重ねる。そんな戯れのような触れ合いを繰り返しながら、二人は寝台の上に横たわった。
互いの体温と児戯に等しい愛撫は心地よい眠気を誘う。二人は互いの体温を分かち合うようにぴったりと肌を重ね合わせ、ゆるやかに流れる時間に身を任せた。
***
天幕の隙間から差し込む光が朝焼けの色を帯び始めた頃、リンハルトは幼なじみの熱を唇に残したまま瞼を持ち上げた。
情事の跡を色濃く残した寝台の上で、無防備に眠る幼なじみの寝顔を目に焼き付けながらその体に残った傷跡を指先でなぞっていく。
この傷跡を見るたびに、リンハルトの胸には疼痛が走った。カスパルが血を流すことへの恐怖と、その傷の数だけ命が助かったことへの安堵。それらの重さを比較したとき、リンハルトの中で勝るのはいつだって恐怖のほうだった。
「カスパル……僕はね」
カスパルが人より頑丈だからといって、人より多く傷つく必要はないのだ。人の命が等しく尊いように、人が傷つくことは等しく酷いことなのだから。
誰かを庇って傷つく彼を見るたびに、リンハルトはそう思わずにはいられない。だが、それを言葉にして伝えればカスパルを困らせるだけだろう。
そして、そんな一面も含めて自分は彼に惹かれているのだと思うと、彼を否定しているようで矛盾も感じてしまう。
だから、リンハルトはただその体に残る傷跡を慈しむように撫でることしかできない。
「……愛してるよ」
もう一度そう囁いてから、リンハルトはカスパルの体にそっと毛布をかけ直した。
「おやすみ」
寝台に横たわって瞼を閉じる直前、リンハルトはカスパルの唇に自分のそれを重ね合わせる。するとカスパルはむずがるように小さく呻き、何かを求めてリンハルトの体に腕を巻き付けてきた。
その体温が、あまりにも愛しかったせいだろうか。
リンハルトは人生で初めて、まだ眠りたくないと思った。
***
リンハルトが目覚める数日前――戦後処理に駆り出されていたカスパルは、激務の隙間を縫ってリンハルトが寝かされている天幕を訪れていた。
重症を負った者は適切な治療を受けられる町へと搬送されているため、ここにいるということはリンハルトはそこまで深刻な状態ではないのだろう。カスパルはそのことに安堵しつつ天幕の中へと足を踏み入れた。
リンハルトは寝台の上で静かに寝息を立てていた。もともと白い顔には青みが差しており、頬も少しやつれた気がする。おそらく戦闘中はあまり休息を取れていなかったのだろう。
無論、カスパルとてそれは同じだった。戦後処理に追われる日々で疲労が蓄積しているし、戦闘で負った怪我もまだ完治していない。しかし、それでもこうして足を運んだのはやはりリンハルトが心配だったからだ。
「あら、カスパルくん。来てたのね」
負傷者用の天幕へと戻ってきたマヌエラは、カスパルの姿を見るなり嬉しそうに口角を上げる。
行軍に参加していないマヌエラは非戦闘区域で負傷者の治療にあたっていた。そのため黒鷲遊撃隊とは別行動をしており、最後にカスパルと顔を合わせたのも一節以上前のことだったのだ。
「ひさしぶりだな、マヌエラ先生」
「ええ、久しぶりね。元気そうでなによりだわ。……本当に、生きて戻ってくれて安心した」
カスパルは軽く会釈をしてから寝台へと向き直り、リンハルトの顔を覗き込む。それに気付いたマヌエラはリンハルトを一瞥したのちに、カスパルを安堵させるように笑みを浮かべた。
「命に別状はないわよ。たぶん、魔力の使いすぎと精神的な疲労だと思うわ。リンハルトくんたちが守っていた拠点は比較的戦闘が少なかったけど、怪我人や難民の受け入れもしていたみたいだから……前線にいるのとはまた違う緊張感があったはずよ。きっと、みんなを不安にさせないように気を張っていたのね」
「そっか……でも、無事ならよかったよ」
マヌエラの言葉にカスパルはほっと胸を撫で下ろす。
そんなカスパルを見たマヌエラは柔らかな微笑を浮かべた。
「ふふ……本当にリンハルトくんが好きなのね」
「そりゃあ、まあ……大切な親友だからな」
照れ臭さを隠すように頭を掻いてから、カスパルは改めて寝台に横たわる幼なじみの寝顔を見下ろす。
リンハルトはまだ眠りから覚める気配はないものの、呼吸は安定しており表情も穏やかだ。それを確認したカスパルは安堵の息を吐き、自然と口元を綻ばせる。
それからカスパルは寝台の横にしゃがんでリンハルトの手を取り、両手で包み込むように握り締めた。その体温は確かに生きている人間の温かさを宿しており、それを感じられることが何よりも嬉しかった。
――この戦いが終わったらさ……少し話がしたいんだけど。
ふいに、数週間前のリンハルトの言葉を思い出してカスパルははたと顔を上げる。
あのときははぐらかされてしまったが、もしかしたらリンハルトは愛の告白でもするつもりなのではないか――とカスパルは密かに予想していた。
それが思い違いであったなら恥ずかしいことこの上ないが、そうであったなら心の準備はしておいたほうがいいだろう。
カスパルは寝台の端に肘をついて頭を乗せると、そのままリンハルトの横顔をじっと見つめた。その瞼が開くのを待ちながら、頭の中でこれからのことを思い描いてみる。
もし告白されたら、自分はなんと答えればいいのだろう。そもそも恋仲になるという感覚がカスパルにはよくわからないのだが、リンハルトがそれを望むのなら応えるべきなのかもしれない。
好きだと言われて、好きだと返して――それから、恋人というのは何をするのだろう?
それがまったく予想できないほどカスパルは無知でも純真でもないのだが――むしろ、漠然と予想がつくだけになおのことどうすればいいのかわからなくなってしまうのだ。いかんせん、カスパルの脳内には具体的な像というものが欠けすぎていた。
「あ、あの……マヌエラ先生。相談があるんだけどよ」
そこまで考えたカスパルは、すぐそこにその手の話題に詳しそうな人物がいることを思い出して口を開く。
「あら、どうしたの? 食欲がないとか、眠れないとかかしら?」
「いや、そういう深刻な話じゃねえんだ」
マヌエラの純粋な気遣いにカスパルはばつが悪くなって頭を搔いた。兵士たちの精神的な看護も担当しているマヌエラは、そういった相談を受けることも多いのだろう。
「えーっと……その……なんつうか……リンハルトのことなんだけどよ……」
カスパルにとって色恋の話題はどうにも苦手な分野であり、言葉が上手く続かない。
それでもなんとか伝えようと頭の中で言葉を組み立てるも、けっきょく適切な表現が見つからずに口ごもってしまった。
そんな心情を察したのか、マヌエラは小さく笑ってからカスパルの背中を優しく叩く。
「大丈夫よ。ゆっくり話してちょうだい?」
「……お、おう」
からかわれるかもしれないと危惧していたカスパルだったが、マヌエラの口調はいたって穏やかだった。
その声音に背中を押され、カスパルは大きく深呼吸をしてから口を開いた。
千の路
終戦の日から何節かの時が過ぎ、戦後の処理に奔走していた将兵達もようやく各々の領地へと帰還した。帝都アンヴァルからも戦の物々しさは消え、士官学校も再開されフォドラには穏やかな日常が戻ってきていた。
戦争は終わったのだ。終戦を祝う多くの者と同じように、リンハルトも久方ぶりに腰を落ち着けて研究に専念できる。
そう、思っていたのだが――現実はそんなに甘くはなかった。
「はあ……また面倒ごとですか」
リンハルトは辟易した態度を隠さず溜息をついてから目の前に立つ父親を見上げた。
父親――ヴァルデマーはそんなリンハルトの反応など意に介さずといった様子で淡々と話を続ける。
「王国軍の残党兵が帝国領内で略奪行為を行っているらしい。その対処のために砦へと赴き、残党兵を討伐せよと陛下からのご命令だ」
「嫌です。僕はもう軍役から退いた身ですからね。そもそも、荒事を任せるならもっと適切な人物がいると思いますけど」
「残党兵の中には魔術の心得のある者たちが混ざっている。こちらも魔術に長けた者を向かわせる必要があるだろう。魔術に造詣が深く、自由に動ける者という意味では君が適役だと思うが」
「それは、そうかもしれませんけど……僕も暇じゃないんですよね」
リンハルトはなおも不満を露にする。
しかし、ヴァルデマーはそんな息子の様子を気に留めることもなく話を続けた。
「これは皇帝陛下の勅命だ。従わないという選択肢はない」
「はあ……わかりましたよ。行けばいいんでしょう?」
結局、リンハルトが折れる形で話は決着した。
ここで食い下がったところで結果は変わらないだろう。それならば諦めて承諾したほうが時間と労力の節約になる。だが、やはり面倒ごとは面倒だ。
そんなリンハルトの心中を見透かしたように、ヴァルデマーは言葉を付け足した。
「討伐にはベルグリーズ戦団も同行することになっている。一度ベルグリーズ邸まで赴いて指揮官と話をしておいてもいいかもしれないな」
「……ベルグリーズ戦団が?」
リンハルトはその言葉の意味を思索する。
予備士官同然のリンハルトに任せるような任務が、軍務卿直々に出向くほどの重要な仕事とは思えない。となれば、同行するベルグリーズ戦団を率いている将はカスパルだろう。
「……わかりました。それでは失礼します」
リンハルトは一礼をして父親の執務室を後にした。
面倒だとは思うものの、皇帝の命令となれば仕方がない。
それに――カスパルにも会えるのだ。
アンヴァルに戻ってからというもの、二人は一度も顔を合わせていなかった。というのも、カスパルが残党兵や野盗の討伐に忙殺されているせいで私的な時間が取れなかったせいだ。
カスパルはいつか家を出て一人で身を立てると言っていたが、現状、帝国軍はカスパルが率いるベルグリーズ戦団の戦力に頼っている状態だ。
カスパルにはこのまま帝都に残留してもらって、皇帝の手足として動いて欲しいというのがエーデルガルトの本意ではないかと思うが――そこはリンハルトが介入すべき領分ではないだろう。
それよりもリンハルトには、カスパルに会って確かめたいことがあった。
カスパルの体温を思い出すだけで体が火照るほどには、あの日の出来事はリンハルトの心に深く刻み込まれている。高揚した彼の目の周りには穏やかな朱が差し、それが彼の虹彩の青を更に美しく輝かせていた。
だが、こうして日々が過ぎるうちに、果たしてあれは現実だったのか、昏睡中の自分が見た幻だったのではないかと、懐疑の念が生まれるようになっていたのだ。
だから、この機会に確かめたいと思ったのだ。カスパルの真意を。
リンハルトが馬車を走らせてベルグリーズ邸を訪れたのは翌日の話だ。
使用人からすでに話が通っていたのだろう、カスパルは自ら門扉まで出迎えてくれた。
リンハルトは恭しく頭を下げる御者に礼を言いながら、門扉をくぐって敷地内へと足を踏み入れる。
「久しぶりだね」
「おう! 元気そうだな!」
「うん、まあ……それなりにね」
屈託なく笑うカスパルにリンハルトは曖昧な笑みを返す。
「最近、忙しそうだね」
「ああ、まあな。エーデルガルトにこき使われてるよ」
カスパルは変わらない様子だった。
昔と変わらない闊達な笑顔を向けられ、リンハルトは安堵すると同時に一抹の不安を抱く。
本当にあれは現実だったのだろうか? それとも夢だったのか? その答えを確かめなければ――リンハルトは逸る気持ちを抑えながら、カスパルに促されるままに邸内へと進む。
カスパルの私室へと通されたリンハルトは、久しぶりのその空間に懐かしさを覚えて目を細めた。
子供の頃から入り浸っていたその部屋は、以前よりも片付いているように感じられる。官舎から持ち帰ったのであろう手紙も棚に収められ、いつも散らかっていた文机の上も綺麗に整えられていた。
「ずいぶん綺麗にしてるんだね。忙しくてあまりこの部屋は使ってないのかな」
「あー……まあな」
リンハルトが部屋をぐるりと見回しながら訊ねると、カスパルは歯切れの悪い返答をする。
その反応を訝しんだリンハルトが首を傾げたところで、カスパルはばつが悪そうに後頭部を掻いた。
「今回の件が片付いたら家を出ようかと思っててよ。それで、少しずつ片付けてたんだ」
「そう……まあ、前々から言ってたもんね」
リンハルトは内心で複雑な思いを抱きながら相槌を打つ。
カスパルの意思は尊重すべきだろう。しかし、あの出来事をうやむやにされたまま帝都を離れられるのは逃げられるようで釈然としなかった。
「それでよ、その……リンハルトも、一緒に来ねえか?」
「……え?」
唐突な提案にいったん思考が止まり、リンハルトはカスパルの顔を見やる。
「オレもそうだし、お前だって帝都にいたらゆっくりできねえだろ? だから、二人で旅でもって思ってよ」
カスパルは一度気恥ずかしそうに視線を泳がせたが、すぐに向き直ってリンハルトの顔を見据えてきた。
「もちろん、お前の負担になるんだったら無理強いはしねえけど」
「ううん、いいよ。行こう」
リンハルトは即答した。そう答えることに迷いはなかった。
「……え、いいのか? いや、旅ってそんな気楽なもんじゃねえからな? 野盗や魔獣だっているし、危険なんだぞ? 研究だって満足にはできねえだろうし……」
「そんなことはわかってるよ」
リンハルトの答えが予想外だったのか、カスパルは狼狽した様子で訊ね返す。
リンハルトはカスパルに歩み寄ってその体を抱きすくめた。カスパルは突然のことに身を硬くしたが、やがておずおずとリンハルトの背中に手を回してくる。
「君を、愛してるよ。君が行くところなら僕はどこへでも僕も行くし、何があってもそばにいるよ」
リンハルトはことさら明瞭にその言葉を口にした。
カスパルの体温を感じながら、その感触を全身で確かめながら、リンハルトはようやくあの日の出来事が夢でないということを実感できていた。
いまここに確かに在る体温が証明してくれている。カスパルのぶっきらぼうな告白も、体を重ねたときの切実な声も、そのすべてが現実だったということを。
「その、オレも……愛してるよ」
カスパルは感極まったようにぶるりと体を震わせ、それからリンハルトの背中をぎゅっと抱き返した。
腕の中の体温を抱きすくめたまま、リンハルトはそっとカスパルの唇に自分のそれを重ねる。カスパルは一瞬だけ体を硬直させたが、やがて力を抜いてリンハルトの口付けを受け入れた。
啄むような口付けを何度も交わして互いの体温を確かめ合ったあと、リンハルトとカスパルはゆっくりと顔を離す。そして、もう一度強く抱き締め合った。
「一緒に行こう、リンハルト。ずっと……ずっと一緒にいよう」
「……うん、約束だよ」
互いの存在を確かめるように抱き締め合いながら、二人はもう一度唇を重ね合わせた。
***
カスパルがエーデルガルトから宮城に招かれ、軍務卿の後継に関する打診を受けたのはそれより数日前のことだった。
カスパルは既に帝国の将として一廉の功績を挙げている。加えて、現皇帝と現軍務卿の推薦があっての就任とあらば反対する者はいないだろう。
「オレが……軍務卿に……」
カスパルは天鵞絨ビロードの絨毯を眺めながら、エーデルガルトの言葉を反芻するようにつぶやく。
父親の跡を継いで軍務卿に――それはカスパルにとって望ましい未来であったはずだし、そうでありながら望むべくもない未来のはずだった。その未来がいま、自分の返事ひとつで掴める場所にまで来ている。
そうであるはずなのに、カスパルはそれを快諾できないでいた。
『好きだよ』
『愛してるよ』
カスパルの脳裏には、終戦の折に懇篤の仲となった幼なじみの姿がこびりついて離れなかった。
それは、触れられることがなければ自覚することもなかった感情だったのかもしれない。
カスパルの中に眠っていたそれを目覚めさせたのは、間違いなく彼が口にしたその言葉だった。
あれから、リンハルトとはほとんど顔を合わせていない。帝都での凱旋や催事で同じ場所に居合わせることこそあるものの、私的な交流は皆無と言えた。
それにすらリンハルトは顔を出さないことが多く、カスパルの多忙さも相俟って二人は同じく帝都に居を構えながらもどんどん疎遠になっていたのだ。
この上で軍務卿となったのであればどうなるのだろうとカスパルは考える。カスパルが幼い頃から転戦を繰り返し、数節単位で家を留守にすることもあった父親を思えばそれは自明の理であった。
「迷っているのか、カスパル?」
ふいに声を掛けられ、カスパルは弾かれたように顔を上げた。目の前には父親――レオポルドの怪訝そうな顔があり、そこで初めてカスパルは自分がその場に立ち尽くしていたことに気がついた。
「あ、いや……」
カスパルは言葉を濁す。
父親の手前、リンハルトとの交友関係を杞憂して軍務卿の継承を迷っているなどとは言えなかった。
しかし、そんな息子の様子を見て何を思ったのか、レオポルドはふっと表情を和らげる。
「まあ、無理はなかろう」
「……え?」
「軍務卿となれば、いままで以上に制約が多くなるだろうからな。どの道を選ぶかはお前の自由だ。自分の道を見つけたのであれば、その道を進むのも悪くはないだろう」
「親父……」
レオポルドはそれだけ言うと、カスパルの肩に手を置いて立ち去っていった。
遠ざかる父親の背を見つめながら、カスパルは改めて自分の未来について考える。
――リンハルトが、自分のそばにいてくれるのなら。
彼が自分の将来を考えたとき、確信を持ってそうと言えることはそれだけだった。
翌日、カスパルはエーデルガルトに辞退の旨を告げると、自室の荷物の片付けを始めたのだった。
***
帝都アンヴァルから遠く離れた山間で、リンハルトとカスパルは薪に火を焚べて野営を行っていた。
鳥や獣を狩りながら食糧を確保し、時には山菜や薬草を採って飢えをしのぎ、夜になれば身を寄せ合って暖を取り合う。
そうしていくつもの街や村を通り過ぎ、国を渡り歩くうちに、いつしか数年の時が流れていた。
「はあ……寒いねえ」
暖を取るために火に手をかざしながら、リンハルトは傍らで毛布にくるまるカスパルに声をかける。標高の高いこの場所ではまだ雪が残っており、春を迎えようとする大地を白く染め上げていた。
揺らめく炎を見ていると、リンハルトはあの戦争を思い出す。
戦争が終わってから、リンハルトは当時の凄惨な記憶と共に武器や防具をへヴリング邸の倉庫に押し込めた。それから倉庫に足を踏み入れたことはなく、戦争の話題も故意に避けている。そして、カスパルがその記憶をあえて掘り起こすこともなかった。
「ああ、でも……こうしてるとあったけえだろ?」
「うん。そうだね。君は昔から暖かいよねえ」
リンハルトはカスパルの脇に丸まってその胸に頭を預ける。カスパルはそんなリンハルトを腕の中に包み込み、頬を頭の上に乗せて体温を分け与えていた。
リンハルトはカスパルの胸に頬ずりしながらその温もりを享受する。
この体温が、ずっと欲しかったのだ。そしてそれはいま確かにここにあって、リンハルトの心を温めている。
「……なあ、リンハルト」
ふいにカスパルに名を呼ばれ、リンハルトは顔を上げた。
「なに?」
「お前さ……本当に良かったのか? 帝都を出て……。紋章の研究とか、したかったんじゃねえのか」
カスパルは不安げに問いかける。
リンハルトをよく知る彼だからこそ、リンハルトが安穏と過ごせる地を離れるという選択をしたことをいまだ憂慮しているのだろう。
「紋章の研究ねえ……もちろん、興味はあるよ? でもさ……」
リンハルトは少し思案したあと、いたずらっ子のように目を細めて笑った。
確かに、帝都には研究対象として興味深い相手が何人もいるし、紋章に関する書物も豊富に揃っている。それらを自分との約束で反故させたことに、カスパルは後ろめたさを覚えているのかもしれない。
「こうやって君と二人きりで過ごす時間も、僕は気に入ってるんだよ。たぶん、君が思ってる以上にね」
「……そうか」
カスパルは気恥ずかしそうに頰をかくと、リンハルトの肩を抱き寄せて体を密着させる。
二人の体温が重なり、その境界を曖昧にしていく。まるで触れた箇所から溶け合うような感覚に、リンハルトはまどろみながら身を委ねた。
「でもさ……いつかは、どこかに落ち着く必要があるよな。オレもお前も歳をとるわけだし」
「そうだね」
リンハルトは目を伏せながら首肯する。
ずっと一緒にいるとは言ったものの、別れのときがいつか必ず訪れることももちろん理解していた。
だからこそリンハルトは限りある時間を愛する人と共有したかったし、カスパルもまた同じ思いを抱いてくれていたことが嬉しかったのだ。
「だからよ、二人で暮らせる場所を見つけておかねえか?」
「それって……」
カスパルの提案に、リンハルトは目を丸くして顔を上げた。
「歳とってもさ、ずっと一緒にいようぜ。お前が嫌じゃなければだけど」
「嫌なわけないよ」
リンハルトはいつかのように即答する。
カスパルと過ごす日々が、これからもずっと続いていく――それはリンハルトにとって願ってもないことだった。そして、それがカスパルの口から聞けたことが何よりも嬉しかった。
「前に言ったよね。僕は何があっても君のそばにいるよ」
「……ああ。そうだよな」
リンハルトは再びカスパルの胸に頰をすり寄せ、心地よい睡魔に身を委ねる。その体を、カスパルの腕が優しく抱き締めた。
もう、眠るのが嫌だとは思わなかった。どれだけの朝を迎えても、この温もりは変わらずそばにあるのだから。
リンハルトはカスパルの腕の中で幸せを嚙みしめながら、静かに眠りへと落ちていった。