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 ペアエンド妄想短編集


 ヒルダ/ベルナデッタ/アネット/エーデルガルト




 

 カスパル+ドロテア


二人は生涯を共にできるほど親密な仲ではあるものの、性的・恋愛的な間柄ではないクィアプラトニックな関係なのではないかという解釈に基づいた話です)



「ほら、持ってて」
「買いすぎだぞお前。もうしまうところねぇだろ」
 市場での買い物を終え、大量の荷物を腕に抱えたカスパルが不満を漏らす。
 首都アンヴァルから離れた小さなこの村では、カスパルが軍務卿の息子であることや、ドロテアが「奇跡の歌姫」であることを知るものはいない。
 二人がその地に小屋を建て、ひっそりと移住してから数年が経っていた。
「ふふ、カスパルくんが力持ちでよかったわ」
「お前なぁ……」
 ドロテアが大量の食材を押し付けても、カスパルは文句を言うだけでつっぱねはしなかった。二人並んで仲睦まじく帰路につく姿は、傍から見れば恋人か夫婦に映るのだろう。
「おや、綺麗な嫁さん連れてるな兄ちゃん。大切にしてやれよ」
 そんな二人の姿を見停めた行商人が、カスパルにからかいの言葉を投げかける。
 カスパルはきょとんと目を瞬かせたあと「そういうんじゃねえけど……」と言いかけたが、途中で諦めたように口を噤んだ。こいった誤解を受けるのは、もはや何度目かわからないほどだったからだ。
「やっぱり、二人で買い出ししてると夫婦だと思われるな。もう慣れたからいいけどよ」
「まあ、そんなものよ」
 帰宅したカスパルは荷物を机の上に下ろしながらひとりごちた。慣れた手つきで暖炉に火を熾し、湯を沸かす準備を始める。
 二人が士官学校で出会ってから十年以上の時が流れていたが、カスパルが色恋沙汰に興味を示さないのは相変わらずだった。
 当時カスパルとドロテアが二人でお茶をしている姿が、ほかの者たちに逢い引きだと思われていたことすら彼は知らないのだ。
「そんなもん、か。まあ、お前もヒューベルトにエーデルガルトが好きなんだろうとか言ってたもんな」
「ちょっ……ヒューくんから聞いたの!?」
 思わずドロテアが取り落としそうになった紅茶の容器を、カスパルの手がすかさず受け止める。
「もう、昔の話なんだからいいでしょ」
 カスパルから容器をひったくったドロテアは、ごまかすように紅茶に砂糖を放り込んでゆく。
 カスパルとドロテアを夫婦だと思い込んでいる村の老人たちから「子供は作らないのか」などと頻繁に訊ねられるようになったいま、あのときのヒューベルトの煩わしさがドロテアにも理解できるような気がした。
「そういや、リンハルトのやつ結婚するらしいぜ」
「まあ、リンくんが?」
 カスパルは音を立てて紅茶を啜ったあと、思い出したようにリンハルトからの封書を取り出す。
 帝都から離れたいまもカスパルとリンハルトの仲の良さは変わることがなく、不定期に手紙のやりとりも交わしていた。
「あいつもそういうのに興味ないほうだと思ってたから意外だったな」
「あら、カスパルくん知らないの? リンくん、あれでかなりの女たらしなのよ?」
 ドロテアの言葉に今度はカスパルが驚いた表情を浮かべる。
 リンハルトの歯が浮くような口説き文句は一部のあいだでは有名だったが、色恋沙汰への興味のなさからかカスパルの耳には届いていなかったようだ。
「……カスパルくんも、結婚したいって思うことある? 例えば、私と……とか」
「いや、別に思わねぇけど」
 遠慮がちに問いかけるドロテアに、カスパルは不思議そうに小首を傾げてそう返した。「奇跡の歌姫」に求婚まがいのことを言われてこのような素っ気ない返事をできる男もそうそういないだろう。
「ふふ、そうよね」
 予想通りの返答にドロテアは苦笑した。
 カスパルはドロテアと同居しているというのに、相変わらず色気のある言葉ひとつ言わず行動も起こさない。
 自分が幸福な未来を手に入れるためにはお金と愛情が必要であり、そのためには貴族と結婚する必要がある――
 そう考えていたドロテアにとって、いまや貴族でもなく恋愛にも興味を持たないカスパルとの生活は、自分の価値観を大きく変えるものだった。
 しかし、それがドロテアにとって心地がいいこともまた確かだった。
「でも、お前がしたいってんなら構わねえぜ。前にそういう話もしたもんな」
「……別にいいわ。結婚するだけが幸せってわけじゃないものね」
 ドロテアはそっと茶器を皿の上に置く。
 互いがいい年齢になったとき双方に伴侶がいないのであれば、結婚という道もあるかもしれないという話はしたが――いまとなっては、わざわざ結婚という形式にこだわる必要もないように思えた。
 貴族の男に媚びて、相手の機嫌を窺いながら関係を築くよりも、こうして気の置けない相手と過ごす毎日のほうが、ドロテアにはずっと幸福に感じられたからだ。
「リンくんの結婚式、楽しみね。私も久しぶりに礼服を着ようかしら」
「いいんじゃねぇか? そうでもないとあんま着る機会ないしな」
 紅茶を啜りながら、カスパルは屈託のない笑みを浮かべる。
「ふふっ、楽しみね。……花嫁用の礼服は、ちょっと着てみたかったな」
 ぼそりと呟いた言葉は、幸いにしてカスパルの耳には届かなかったようだ。不思議そうに首を傾げている彼に「なんでもないの」と返しながら、ドロテアはまた紅茶を啜るのだった。

 カスパル×ヒルダ


 カスパルとヒルダが旅に出て数節――気ままな二人の悠々自適な旅が幕を閉じたのは、ヒルダの兄であるホルストからの呼び出しが理由だった。
 レスター最強と謳われるホルストに会えるとあってカスパルは高揚を隠せないでいたが、かくいうホルストはと言えば、かわいい妹を連れ出した不届き者を成敗するべく鬼の形相で待ち構えていたのである。
「クロードくんのお母さんの話を聞いてから、こういうのに憧れてたんだよね~。二人きりの逃避行、迫り来る追手……みたいな」
「はあ……お前はなんか楽しそうだよなあ」
 ホルストにこってりと絞られて心身ともに疲弊したカスパルは、楽しげに揺れるヒルダの髪を恨みがましく見つめる。
「なんだか疲れてるわね~。兄さんとなんの話してたの?」
「いやさ、なにもしてねえって言ってるのに、お前の兄さんときたら聞いてくれねぇんだ。まあ、ゴネリル家の令嬢を連れ回したのは事実だけどよ……」
 なにやらホルストに誤解を受けたカスパルは、突然呼びつけられたあげく根掘り葉掘り詰問されたらしい。その果てにようやく解放されたときには、既に日が落ちようとしていた。
「話し合っても埒が明かねえから最終的に拳で殴り合うことになったんだが、それでもなかなか決着がつかなくてさ。なんで殴り合ってたのか忘れたときくらいにお前の兄さんが『私と互角に渡り合うとはなかなかの猛者だな! 気に入ったぞ』とか言い出して」
「……兄さんもカスパルくんも相変わらずねえ」
 ヒルダからすれば、話し合いの末になぜ殴り合いになるのかも、なぜそこから和解できるのかも理解しがたい。
 かと言って、それを咎めるつもりも彼女にはなかった。理解こそできないものの、カスパルや兄の快活さは好ましいと思っていたからだ。
「でさ、そのあと『ヒルダとの結婚を認めよう!』なんて言うんだぜ」
「ええ? ……兄さん、なにか誤解してるみたいね。あたしのことになるとすぐ熱くなるんだから~。まあ、兄さんはカスパルくんをよく知らないから、そう思われても仕方ないか~」
 ヒルダは困ったように肩をすくめる。
 カスパルとヒルダは共に旅をする間柄ではあったが、いわゆる男女の関係というものではなかった。
 男女が寝食を共にしている以上そういった誤解を受けることはヒルダには想定内であったが、色恋沙汰に疎いカスパルにとってホルストの発言は不可解だったようだ。
「……でも、ふふっ、こういうのいいなあ」
「いい? なにがだ?」
 上機嫌に笑うヒルダにカスパルは首を傾げる。
「だってカスパルくんがあたしと結婚するために兄さんと決闘しただなんて……舞台の物語みたいで素敵だもの」
「いや、順番が違わねえか……? まあ、いいけどよ」
 ヒルダは夢見る少女のようにうっとりとした表情を浮かべるが、浪漫とは無縁のカスパルに彼女の気持ちはわからないようだ。
「それで、カスパルくんはどうするの?」
「なにがだ?」
「あたしと結婚する許可を兄さんに貰ったんでしょ? 結婚、しちゃう?」
 ヒルダは上目遣いで甘えるように訊ねる。このような愛らしい仕種をしたところで、カスパルがときめくことはないのは重々承知ではあったが。
「しねえ」
「なんで?」
「いや、結婚ってよくわかんねえし……覚悟もねえのにしていいものでもないだろ?」
 カスパルの返答はヒルダにとって意外なものだった。カスパルは結婚自体に抵抗があるわけではなく、むしろその行為の意味を彼なりに考えているらしい。
「そう? あたしはカスパルくんと一緒にいられると楽しいし、結婚してくれるなら嬉しいけどな~」
 これは押せばいけるかもしれない――それを察したヒルダは、その行為によって自分が喜ぶということを強調して伝える。
「……そうなのか?」
「そうよ~」
 かわいらしく首を傾げるヒルダに、カスパルは照れくさそうに頬を掻いた。
「そっか……じゃあ、結婚……してみるか?」
「するの? ふふ、嬉しいな」
 ヒルダは顔を綻ばせると、カスパルの腕に自らの腕を絡める。
 後日、カスパルは正式にゴネリル家の騎士として登用されることとなり、二人はゴネリルの邸で共に暮らすこととなった。
 男女の営みのいろはなど知らないカスパルが、ヒルダの指南を受けながら日夜奮闘する姿は、やがてゴネリル邸の名物となるのだが――カスパル本人がそれを知っていたのかはついぞ不明である。

 カスパル×ベルナデッタ



 フォドラ全土を揺るがす戦争はアドラステア帝国の勝利という形で幕を下ろした。
 各地では戦後処理などが行われ、帝国将として戦っていた者たちもまた忙しい日々を送っている。
 そんな日々がひと段落しようというある日、ベルナデッタは勇気を振り絞ってカスパルに訊ねてみた。
「あ、あのですね、いろいろ落ち着いたあと、カスパルさんは何かする予定あるんですか?」
 中庭で休憩を取っていたカスパルはふいの質問に目を瞬かせる。だがすぐに言葉の意図を理解したらしく、快活な笑みと共に口を開いた。
「ああ……旅に出ようかと思ってる」
「た……旅!?」
 思いもよらぬ返答にベルナデッタは顔を青ざめさせる。
「そ、そんな! カスパルさんがいなくなっちゃうなんて……」
 本人的には心の声だったそれが自身の口から発せられていることなど気づかないまま、ベルナデッタは言葉を続けた。
「えーっと、それは何日くらいの……?」
「さあ。あちこちの国を見て回りたいと思ってるんだよな。フォドラだけじゃなくてさ、ブリギッドとか、ダグザとか、パルミラとか……周辺の国を回るだけでも何年かかるかわからねぇ」
「そ、そんなにですか?」
 ベルナデッタは悲観のあまり泣きそうになってしまう。
 もしかしたら旅先で大怪我をして帝国に帰れなくなるかもしれないし、あるいは国外でいい人を見つけて定住してしまう可能性もある。
 そう思うと、ベルナデッタは「どうあってもカスパルを帝国にとどめなければ」という焦燥感に駆られてしまった。
「あ……あのですね、もしよかったらヴァーリ家の婿養子になりませんか?」
「えっ?」
 ベルナデッタの唐突な提案にカスパルは目を丸くする。
「か、カスパルさんはベルグリーズ家の人ですし、戦争で功績も上げてますから、家族も納得してくれると思うんですよね」
 ベルナデッタは必死に言い募った。それはもう必死だった。カスパルをどうにか引き止めようと焦るあまり、ベルナデッタの脳は混迷を極めていたのだ。
 しかしカスパルはといえば、いまひとつピンとこないようで首を傾げるばかりである。
 ひょっとして、話が飛躍しすぎて理解が追いつかなかったのかもしれない。なにかもう少し具体的な話をしなければ――と、ベルナデッタが思った矢先にカスパルが口を開いた。
「でもオレ、領地の運営とかはまったく習ってねぇぞ? 親父はオレに跡を継がせることは考えてなかったみたいだし……ほかにも貴族ならこれはできなきゃならない、みたいなの、たぶんあるんだろ?」
 カスパルのもっともな疑問に、ベルナデッタはぐっと言葉を詰まらせる。
 普段は貴族としての在り方となどまったく考えてなさそうではあるが、それとは裏腹に現実的な思考と割り切りを持ち合わせているのがカスパルという人だった。
「えっと、それはですね……その、優秀な家令とかがいるので」
「そうか? でも、有能な奴がいてもオレがそれをできないんじゃなあ……」
 ベルナデッタは必死に知恵を絞るが、カスパルを引き留めるための策はまるで浮かばない。なんとかしてカスパルを帝国に留めたくて藁にも縋る気持ちで言葉を紡ぐ。
「いえ、そういうのはどうでもよくて……そうじゃなくて……」
「どうでもいいってことねぇだろ? 貴族の養子になるってことはそういうことだろうし……オレよりもっとふさわしいやつがいると思うぜ」
「だ、だからあの、その……カスパルさんじゃないとだめっていうか……」
 カスパルの返答はあまりにもっともで、ベルナデッタはまともに言葉を紡ぐことができない。
「べ……ベルと結婚してくださーーい!!」
 窮鼠猫を噛む――とでも言うべきか、カスパルを引き止める言葉が尽きたベルナデッタは、もはや勢いに任せてそう叫んでいた。
 カスパルというと――ぽかんとしていた。
 そしてベルナデッタは、勢い余って自分がなにを口走ったのかすぐには理解できず、混乱状態に陥ったまま顔を真っ赤に染めていた。
「いえ、あの、急でしたよねすみません! その、まずは手を繋ぐところからでもいいんですけど……ええとでも、旅に出ちゃうんですよね? それだと寂しいっていうか……せめて国内にはいてほしいんですけど……そ、それに前に教えてくれた素敵な夕焼けが見える丘の場所も覚えてなくって、カスパルさんが一緒じゃないと行けないんですよ。えーっと、それと、あと……」
 ベルナデッタは顔を赤くしたり青くしたりしつつ、しどろもどろになりながらもカスパルを引き留めるための言葉を必死に口にする。
 その勢いに圧されたカスパルはしばらく唖然としていたが、ようやくベルナデッタの言わんとしていることに思い至ったのか、閃いたように「あっ」と小さくつぶやいたのちに頬を赤らめた。
「い、いや、婿養子ってそういうことだよな……悪ぃ、オレそこに気づいてなかった……」
「あ、いえ、違うんです! カスパルさんは何も悪くないです! す、すみません、ご迷惑ですよね!?」
 ベルナデッタはぶんぶんと首を横に振り、あわあわと挙動不審に手を動かして懸命にその場を取り繕う。
「ただ、カスパルさんには……帝国にいてほしいなって……ベルは、その、カスパルさんのことが……」
 先程までの騒々しさとはうってかわって、ベルナデッタは力なく呟く。
 喉まで出かかった言葉は、しかし緊張のあまりか出てこない。ベルナデッタは何度も口をぱくぱくと開閉させたのちに諦めたように俯いた。
「……ベルナデッタ」
 カスパルに名を呼ばれて、ベルナデッタはおずおずと顔を上げる。
「そんなことなら、わざわざ婿養子とか遠回りなこと言わなくても聞いたのによ。オレも、お前と一緒にいると楽しいからさ」
「え……じゃあ……」
 カスパルの返答にベルナデッタはぱあっと表情を輝かせた。
「エーデルガルトにも軍務卿を継がないかって打診されてるし、まあ、しばらくはアンヴァルに残るかな」
「は……はい! そ、そうしてください!」
 ベルナデッタは満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。カスパルが帝国に留まってくれるのであれば、いまのところ他に望むことはない。
「あっ……で、でも、その、さっきの話も別に引き止めるための口実ってわけでもなくてですね? ずっとカスパルさんと一緒にいたいのも、一緒にいてくれれば嬉しいっていうのも本当のことで、その……だから……」
「おや、カスパル殿、ベルナデッタ殿。貴殿たちに頼んだ作業はまだ終わっていないようですが」
「ひえええぇぇっ!? でたああぁっ!」
 足音もなく背後に現れたヒューベルトにベルナデッタが奇声を上げる。
「悪ぃなヒューベルト、ちょっと休憩してたんだ。行こうぜベルナデッタ!」
 カスパルは爽やかに笑いながら立ち上がると、ベルナデッタの手を引いて通路へと駆け出した。
 肝心な言葉を伝え逃してしまったが、自分の手を握るカスパルの手の熱が心地よく、ベルナデッタはまあいいかと頬を緩ませながら中庭をあとにした。

 カスパル×アネット


「はあ……あたしってなんでいつもこうなんだろ……」
 樹木が生い茂る山中、生徒たちからはぐれたアネットは薄暗闇の中でひとりため息を吐く。
 魔道学院の教師となったアネットは、授業の一貫として生徒たちと共に野外演習へと訪れていた。
 しかし、想定外の魔獣の出現によって授業は中止となり、アネットは自ら囮となって生徒たちを山の麓へと避難させたのだ。
 幸いなことに生徒たちに怪我人はなく、あとは自分が魔獣を撒けばいいだけだった。だが、魔獣の追跡は執拗で、逃げているうちにこんな山奥まで来てしまったのである。
 アネットはなるべく音を立てぬよう慎重に歩を進めていくが、どれほど注意を払っても枝を踏み折る音は止めようがなかった。
 さらに不幸なことに、行く手には崖が広がっており、そちらには進めそうにない。つまり、魔獣との戦闘は避けられないということだ。
「しょうがない……やるしかないか」
 アネットは腹を括ると、魔獣と対峙すべく呼吸を整えた。
 唸り声と共に、四つ足の魔獣がアネットへと飛びかかってくる。アネットはその攻撃を躱して魔法を打ち込んだが、あいにく障壁に阻まれてしまった。
「く……!」
 なんとか応戦しようとするが、魔獣の動きは素早く、なかなか攻撃に転じることができない。アネットは魔獣の攻撃を避けるのに精一杯で、気づけば崖の方へと追い込まれていた。
「あ……!」
 気がついたときにはもう遅かった。
 魔物に気を取られていたアネットは足を滑らせ、崖下へと落下してしまったのだ。
 アネットは地面に叩きつけられる衝撃を覚悟してきつく目を閉じる。
 しかし、地面の激突による痛みが訪れることはなく、代わりに力強く体を支えられる感覚があった。
 恐る恐る目を開いたアネットの視界に飛び込んできたのは懐かしい水色の髪と瞳だった。
「――カスパル!?」
 落下するアネットをすんでのところで受け止めたらしい。カスパルは魔獣を避けて木陰に身を隠すと、腕の中のアネットをそっと地面に下ろした。
「無事か、アネット? 怪我とかしてねえか?」
「あ、あたしは大丈夫だよ。ちょっと足をくじいたみたいだけど……それよりカスパル、どうしてここに……」
 諸国を漫遊していたはずのカスパルがなぜフェルディアの山中にいるのか――アネットの質問は魔獣の咆哮によって遮られた。
「おっと」
 アネットとカスパルは体勢を整えて魔獣に対峙する。
「まあ、細かいことは後でいいだろ。それより、今はコイツをどうにかしねえとな」
「う、うん! そうだね!」
 カスパルの掛け声にアネットが頷き、ふたり揃って魔獣へと向き直る。
 アネットの魔法によって、魔獣の障壁には亀裂が生じていた。それを見抜いたカスパルが一気に魔獣との距離を詰めると、右手を振りかぶって鋭い一撃を叩き込む。
「はああぁっ!」
 障壁が砕け、無防備になったところにさらに二撃。たまらず魔獣は後退するが、アネットが魔法によって魔獣の体勢を崩し、その隙にカスパルが更なる追撃を加えた。
 続く攻撃はともに障壁に阻まれて決定打にならなかったが、二人の攻撃は的確に障壁を破壊していき、やがて魔獣を完全に追い詰めた。
 最後はカスパルの強烈な一撃が直撃し、魔獣は咆哮と共に地に伏した。

「カスパルは私の同窓生なんだよって説明したら、生徒たちすっごく羨ましがってたよ。離れ離れになってた相手が窮地に助けにくるなんて、物語に出てくる王子様みたいだって」
 アネットは今にも鼻歌を口ずさみそうなほどご機嫌な様子でカスパルに語りかける。
 あれからアネットとカスパルは無事に山を降り、避難していた生徒たちと合流して魔道学院への帰路についた。
 カスパルがアネットの危機を知ったのは偶然フェルディアを訪れていたという理由に加えて、生徒たちが魔法で狼煙を上げて危機を知らせていたためだったという。
「ま、お前の窮地を見過ごすわけにもいかねぇしな」
「えへへ、ありがとうカスパル。本当に助かったよ。……でも」
 カスパルに何度目かの礼を伝えたアネットは、しかしふいに表情を曇らせる。
「やっぱりあたし、まだまだ半人前だなあって実感しちゃった。たまたまカスパルが助けに来てくれたからいいけど、もし誰も来なかったらあたしだけじゃなく生徒たちも危険だったかも……」
 魔獣との戦いを振り返り、アネットは自らの弱さを嘆いた。
「なに言ってんだよ」
 がっくりと肩を落とすアネットの肩をカスパルが軽く叩く。驚いた顔をして顔を上げたアネットを、カスパルは真剣な眼差しで覗き込んでいた。
「お前が身を呈して逃がしたから生徒たちは無事だったんだし、お前が無事なのはたまたまじゃなくてお前の生徒たちが危機を知らせてくれたからだ。あの魔獣を倒せたのだって、オレとお前が力を合わせたからだろ?」
「カスパル……」
 カスパルの力強い言葉を受け、アネットの瞳にじわっと涙が浮かぶ。
「ありがとう、カスパル。カスパルは変わらないね。いつも落ち込んでると慰めてくれる」
「いや、それはお前がよく落ち込むからだろ。前もそうだったじゃねえか」
 アネットは涙を拭い、カスパルの言葉に微笑んだ。落胆からではなく別の種類の涙が溢れそうになってしまったが、ごしごしと目を擦ってなんとか涙を押し留め、気を取り直すように深呼吸をする。
「やっぱり、カスパルには敵わないなぁ……あ、でも今回のことはちゃんと反省しなきゃだよね。生徒たちにはもっと安全な授業をしなくちゃ!」
「おお! その意気だぜ!」
 気合いを入れるように拳を握るアネットの姿に釣られるようにして、カスパルもまた拳を握る。
「じゃあ、今から夕日に向かって全力疾走しよっか!」
「よっしゃあ! ……ん? なんか前もこういうことなかったか?」
 カスパルは首を傾げつつ、アネットと共に夕日を目指して走り始めた。
 その風景を生徒たちに目撃されてからと言うもの、カスパルの印象が「物語に出てくる王子様」から「灼熱の猛特訓」に変わったのはまた別の話である。

 カスパル×エーデルガルト



 カスパルとエーデルガルトの結婚式は、それはもう盛大に執り行われた。
 なにせ、皇帝と軍務卿という、アドラステア帝国屈指の権力者同士の婚姻である。会場となった城には身分を問わず大勢の参列者が集まり、あちこちで歓声が湧き上がる大盛り上がりの式となった。
「しっかし、本当にオレでよかったのかよエーデルガルト?」
 諸々の儀式を追えたあと、カスパルは礼服の首元を緩めながらエーデルガルトに訊ねる。
 エーデルガルトは好ましく思っているし、だからこそ婚姻の申し出を受け入れたのだが――それでもまだ、皇帝の生涯の伴侶となる相手が自分でいいのだろうかという疑念は拭えない。
 皇帝の結婚は政略的な意味合いも強く、エーデルガルトは数多の貴族から婚姻を申し込まれていた。しかしエーデルガルトはそんな有象無象を相手にせず、カスパルただひとりを選んだのだ。
 もちろん、一部の貴族からは批判の声もあったのだが、エーデルガルトの気迫に気圧されたのか、そういった声はやがてなりを潜めた。
「あら、貴方は私の判断が間違っていると言いたいの? 私は自分の選択に誇りを持っているけれど」
「いや、そうじゃねえよ。オレはお前を信頼してるし、お前がそう決めたなら文句はねえ。まあ……よろしく頼むぜ、エーデルガルト」
 まっすぐな瞳を向けてくるエーデルガルトに、カスパルは気恥ずかしそうに鼻の頭を掻く。
「貴方こそ、本当に後悔しないわね? 貴方の人生を私のために使うことになるのよ? 私個人はなるべく強制はしたくないけれど、皇帝の夫となれば周囲が黙ってはいないわ」
「後悔なんてしてねえよ。結婚なんてしなくたって死ぬまで付き合うつもりだったしな。その覚悟がなきゃお前を選んだりしねえ」
「ふふ……そこまで言い切られると清々しいわね」
 カスパルの迷いのない言葉に、エーデルガルトの顔にも笑顔が浮かぶ。
「貴方は貴方自身の努力と勤勉さによって、いまの信頼と地位を築いたの。それは誇ってもいいことだと思うし、そんな貴方だからこそ私は夫に選んだのよ」
 エーデルガルトは迷いの感じられない口調でカスパルに告げる。その口調には、カスパルの生き様を肯定する気持ちが込められていた。
 貴族とはいえ紋章も継承権も持たないカスパルが、それでもその立場に腐ることはなく、誰よりも真摯に己の生きる道を追求してきた。エーデルガルト自身も、そんなカスパルの在り方を認めているのだ。
 そしてカスパルも、エーデルガルトがその生き方を尊重してくれるからこそ、彼女と共に戦ってきた。その互いへの敬意と信頼が、婚姻という形で昇華するのは想定外ではあったが。
「それより、これからは戦後の混乱を収めることに集中しなければいけないわね。各地で反乱を起こしている残党兵も鎮圧しなければならないわ。もちろん協力してくれるわね、カスパル」
「ああ、任せておけよ!」
 カスパルは拳を握り締め、力強く頷いてみせる。その姿がいつかのカスパルの姿と重なり、エーデルガルトはふっと口元に笑みを湛えた。

 喧嘩屋は靡かない


 ヒルダがカスパルと共に旅に出てから数節が経っていた。
 カスパルは行く先々の町や村で騒動に首をつっこんでは、なぜか最終的に喧嘩相手と仲良くなるなど相変わらずの騒がしさである。ヒルダはそんなカスパルを止めることなく、自由な彼の姿を眺めてはその様子を楽しんでいた。
 生命力に溢れたカスパルの姿はヒルダに活力を与えてくれたし、旅先でのさまざまな発見は知見を広げてくれた。
 それはとても楽しい旅ではあったのだが――ヒルダにはひとつだけ不満があった。ときめきが足りないのだ。
 この旅にヒルダが期待していたもののひとつが、カスパルとの甘く濃密な時間である。
 男女が二人で旅をするのだから、何かあってもいいのではないか。そう期待してしまうのが乙女心というものだ――というのがヒルダの弁だ。
 しかし、旅が始まってからこれまでカスパルがヒルダに手を出したことは一度たりともなかった。カスパルは、相変わらずヒルダの思い通りには動いてくれないのである。
 ヒルダはカスパルのそんな自由なところに惹かれたのだから、それはもちろん好ましいことなのだが――それでも、甘美な出来事のひとつやふたつはあってもいいのではないかと期待してしまうのだ。

 旅先の宿で沐浴を済ませたヒルダは、市場で購入した新品の下着を清潔な体に身につけていく。
 白を基調として繊細な装飾があしらわれた意匠のその下着は、可愛らしくありながらも色気を感じさせる。この下着を着て迫れば鈍感なカスパルとて「ヒルダっ……オレもう我慢できねえ……!」などと言いながら熱い抱擁のひとつもしてくるだろう。
 そしてあの無骨な手で体中をまさぐられ、愛撫を受けたならどれほど気持ちいいだろうか。あるいは強引に組み敷かれ、これまで経験したこともないような快楽に導かれてしまうかもしれない。
 そんな想像をすると自然と鼓動が高鳴り、ヒルダは激しい夜への期待に胸を膨らませるのだった。
「ね~え、カスパルく~ん?」
 ヒルダは宿泊していた部屋に戻り、寝台で荷物を整理していたカスパルを覗き込む。
 外套や上着を脱いだカスパルは肌着と下衣だけの姿になっており、鍛え抜かれた筋肉が薄い布地に浮かび上がっていた。その逞しい肢体にヒルダの期待はますます高まり、体の芯はどんどん熱を帯びてゆく。
「この下着どうかなあ? 市場で見かけてね、かわいいなって思って買ってみたんだけど……」
 胸を覆う下着を指で少しだけずらしながら、ヒルダはカスパルの反応を窺った。
 ヒルダが前屈みになれば、カスパルの位置からはちょうど胸の谷間が覗き込めるだろう。そして、大事な部分を見えそで見えない按配でちらつかせれば、悩殺されない男はいないはずだった。
 いないはずなのだが――
「おう、いいんじゃねえか?」
 カスパルは顔を上げてヒルダを一瞥したあと、すぐに視線を荷物へと戻してしまった。
「……カスパルくん? あたしの下着姿に、なにか感想とかないの?」
「ん? 別に変なところはねえぞ?」
 ヒルダが落胆を隠さず言い募っても、カスパルはずれた返答をするだけである。
「そうじゃなくて、もっとこう、あるでしょ~。かわいいとか、色っぽいとかあ……」
「あ……? ああ!」
 再び顔を上げたカスパルはヒルダの下肢に視線を移す。そして、何かを思い出したように感嘆の声を上げるとヒルダの秘所を覆う薄い下着を指で示した。
 ――やっとカスパルがヒルダの体に興味を示してくれたのである。
 それを感じ取ったヒルダは内腿をもじもじと擦り合わせた。
 このままこの指先が下着の中に忍び込み、甘い期待に疼くそこを刺激してくれるなら。そんな想像をするだけで、ヒルダは体の奥が熱くなっていくのを感じていた。
「それ、下着だったのか!」
 しかし、カスパルはヒルダの期待とはまったく別の感想を述べ、納得したように爽やかな笑みを浮かべる。
 下着に対して「下着だったのか」などという頓痴気な感想を告げられたヒルダはただ疑問符を浮かべるしかない。
「前に学校に落ちてたのを拾ってさ、変な形の布だなと思ってたんだけどよ……そういう形の下着があるんだな」
 ヒルダが穿いていたそれは、いわゆる紐パンというやつだ。面積の少ない生地で秘所を覆い、両端を紐で括って固定する形状の下着である。
 確かに、男性の下着にこの形状のものは少ないだろう。特にカスパルは利便性を重視した衣服を好むだろうから、こういった見栄えを優先した下着には馴染みがないのかもしれない。
 それはまあわかる。わかるのだが――別にそこには反応を求めていないのである。
「すっきりしたよ。ありがとな、ヒルダ!」
 カスパルは笑顔で礼を言う。その表情には、ヒルダが期待したような興奮や劣情はまるで感じられない。ヒルダ渾身の勝負下着も、カスパルにとってはただの布切れにすぎなかったらしい。
「も~う……カスパルくんのバカ!」
 ヒルダは不満を露にして頬を膨らませ、カスパルへ背を向けて自分の寝台に潜り込む。
 鈍感なカスパルのことだ。こちらの誘いに気づかない可能性は視野に入れていたが、下着の形状に着目するという斜め上の反応をされるとは予想外だった。
 おかげですっかりと体の火照りが治まったヒルダは、困惑するカスパルの視線を背中に受けながら就寝することとなったのである。

「ね~え、カスパルくんってどうやったらその気になってくれるの?」
「……なんでそれを僕に訊くのかな?」
 ヒルダの向かいの席に座ったリンハルトは、ハーブティーを口に運びながら首を傾げる。
 あれから十数日後、カスパルに連れられて帝都を訪れたヒルダは、これは好機とばかりにカスパルの級友たちに彼について訊ねることにしたのだ。
 カスパルに詳しい人物となれば、幼なじみの彼だろう――ヒルダが真っ先に白羽の矢を立てたのは、帝都で紋章の研究に勤しんでいるリンハルトだった。
 出不精なリンハルトを連れ出すのは困難だ。そう判断したヒルダはカスパルの連れという形でヘヴリング邸を訪れ、彼の好むハーブティーを土産にして話の場を設けてもらったというわけである。
「僕、カスパルと交際してたとでも思われてるの? それならそれで僕に訊くのはどうかと思うけど」
「そういうわけじゃないけど……リンハルトくんはカスパルくんと長い付き合いだし、カスパルくんの好みも知ってそうかな~って」
「カスパルの好み……ねえ。つまり、どうすればカスパルが君に劣情を覚えるかって話だよね?」
 リンハルトは茶器を受け皿に戻すと、顎に手を当てて思案するように俯いた。それから少し間を置いてゆっくりと口を開く。
「僕にもわからないな。カスパルと猥談なんてしたことがないし……僕の知っている範囲では、カスパルは誰かと交際していたこともないね。たぶん、童貞なんじゃないかな。まあ、あいつが一人で旅をしていた五年間のことは僕も口伝でしか知らないけど……」
「え、嘘? カスパルくんって童貞なの? けっこうもてそうだけどなあ。意外ねえ」
 リンハルトの言葉にヒルダは目を丸くして驚く。
 カスパルのあの性格からして、恋愛経験が豊富なほうではないだろうとは思っていた。
 とはいえ、努力家で容姿も整っており運動能力も高く、おまけに名門貴族の直系ときているのだから、言い寄ってくる者の二、三人はいただろうと踏んでいたのだが。
 いや――もしかしたら、カスパルに言い寄ったところで「おう! オレも好きだぜ!」と軽く流されるなどして、それ以上の関係には発展しなかったのかもしれない。
「っていうか、男の子同士でずっとつるんでて猥談しないことってあるんだ……」
「そりゃあ、まあね。女の子同士だって必ずしも恋愛話をするわけじゃないでしょ」
「うーん、そうなのかなあ?」
 リンハルトの断定的な意見にヒルダは首を傾げる。
 恋愛や恋愛話を好むヒルダにとって、親しい友人とそういった会話をしないというのは想像し難いことだった。
 誰が素敵であるとか、どういった恋愛が理想であるとか――そういった話題は交流において重要な対話手段のひとつであり、それに対してまったく関心がないというのは考え辛いのだ。
「カスパルはもともとそういう話題に興味を持たない質なんだろうけど、もしかしたらベルグリーズ家の揉め事も起因しているのかもしれないね。尾びれ背びれのついた悪辣な噂話なんかも、カスパルは子供の頃から耳にしていたと思うよ。だからなのかな、直属の部下たちもカスパルにその手の話題は振っていなかったみたいだ。触れちゃいけないと思っていたのかもしれないね」
 ヒルダは相槌を打ちながらリンハルトの言葉に耳を傾ける。
 カスパルの家庭の事情から部下たちの話まで、リンハルトは実に様々なことを把握しているようだった。それは幼なじみだからというだけの理由ではないだろう。リンハルトがカスパルを気にかけているからこそ、その周辺にまで視野を向けられるのだ。
「……リンハルトくんって、カスパルくんのことすご~く見てるのねえ。あたしの知らないカスパルくんのこと、たくさん知ってるんだ。なんだか妬けちゃうな」
「まあ、長い付き合いだからね」
「もう、なに~? その、勝ったみたいな顔~?」
 ヒルダが率直な感想を述べると、リンハルトは満更でもなさそうな表情を浮かべる。
 リンハルトのこういった表情はヒルダにとっては珍しく、それが見られたことがなんだか嬉しくてつい笑顔になってしまった。
「まあ、それはともかく……ヒルダはどうしてそこまでしてカスパルと関係を深めたいのかな? 別に今のままでも問題ないと僕は思うけど。君たちは嫡子ではないんだし、仲がいい相手と必ずしも性的な関係を持たなきゃならないわけでもないでしょ」
「だって~……せっかくの二人旅なんだし、もっとこう……いろいろしたいっていうかあ……」
「いろいろって?」
「も~、言わせないでよ!」
 ヒルダは誤魔化すように茶菓子を口に運ぶ。
 リンハルトはヒルダの言わんとすることを理解しているはずだが、それをあえて口にさせようとするのだから意地が悪い。
「まあ……カスパルの恋人になるなら、ヒルダみたいに積極的な人じゃないと難しいかもしれないね。受動的にしていたところで、向こうから恋愛的な行動を起こしてくれるようなやつじゃないから」
「そうよね~……けっこう大胆に迫ってるつもりなんだけど……」
 ヒルダは組んだ指先を見つめて溜め息を吐く。
 カスパルを籠絡するためならあらゆる策を弄する覚悟ではいるものの、あの鈍感男にはどんな手を使っても効果がないのではないか? そんな不安が頭をもたげてくる。
 そもそも、金鹿に咲く一輪の花ことヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルとひとつの部屋で寝泊まりをしているというのに、何もしてこないのがおかしいのである。おかしいはずだ。
 そういえば、前にこんなこともあった。
 ヒルダは旅先でカスパルに「宿屋の部屋ひとつしか空いてないらしいけどいいよな?」と訊ねられたことがあったのだ。
 これは確実に「お誘い」である――ヒルダはそう期待し、そのうえで提案を承諾した。だというのに、カスパルときたら朝まで熟睡していたのである。本当にただ部屋の空きがなかったらしい。
 しかし、しかしだ。
 部屋の空きがなく、なおかつその気もないのであれば、「何もしないから安心してくれ」など下心がないことを伝える言葉を添えたりするものではないだろうか? このヒルダちゃんが隣で寝てるんですが? ……とヒルダは思わざるを得ない。
 以前のヒルダであれば、カスパルのこの鈍感さは「カスパルだから仕方ない」と許容できていた。だが、いまはもう二人で旅をしているのである。男女が二人で旅をしているのである。つまり、何も起こらないはずがないのだ。
 ……実際は、何も起こっていないのだが。
「……もしかして、カスパルくんって交合を知らないってことはないよねえ?」
 ヒルダはふと脳裏に過ぎった可能性を口にした。
 いくらなんでもそれはないと思いたいが、そうである可能性がまったくないわけではない。なにせ、カスパルは女性用の下着をそれと認識できないような男なのだ。
「知識としては知っていると思うよ。貴族としての教育の過程で教わっているはずだから。ただ、カスパルの場合は交合という行為が愛情表現と結びついていないのかもね」
「え~? そんなことあるの~?」
「そういう人もいるってことさ。政略的な事情で婚姻関係を結ぶ人や、性風俗を利用する人のように、愛情がない相手と肉体関係を持てる人はいるでしょ? 肉体関係を持てるからと言って相手への愛情があるとは限らないように、相手への愛情があるからといってそれが肉欲に直結するとも限らないってことだよ」
「うーん……つまりカスパルくんがまだお子様で、性的に未熟ってこと?」
 物心ついたころから恋愛という行為を好んでいるヒルダにとって、リンハルトの弁は不可解極まりないものだった。
 だが、ほかならぬカスパルとの関係を進展させるための助言である。不可解なりに脳内で意味を咀嚼をし、改めて訊ねてみた。
「さあ……それはわからない。性的に未熟なだけかもしれないし、根本的にそういった欲求がないのかもしれない。それは他人が判断できることではないし、本人だって判断するのは難しいと思うよ」
「自分でもわからないの?」
「うーん……そうだねえ」
 疑問符を浮かべるヒルダに対してリンハルトは若干めんどくさそうに眉を寄せる。それでもカスパルに関する事柄というのもあってか、「もういいや」と説明を諦めることはしなかった。
「例えば、君は異性に恋をするのが好きなようだけど、これから先の人生で同性を好きになる可能性だってないとは言いきれないだろう? いままで自分好みの同性に会ったことがないだけかもしれない。だから『自分は異性だけが好き』だなんて断言できないはずだよ」
「それを言ったらなんでもありになっちゃうんじゃない? 動物が好きなのかもしれないし、魚が好きなのかもしれないってことよねえ」
「うん。そういうことだと僕は思うよ。人が好きになる相手は異性とは限らないし、同性とも限らない。両方が好きな人もいるだろうし、両方を好まない人だっている。あるいは、その二種類に限らないかもしれない。なんなら相手が人間でない可能性だってあるわけだ。だから、自分がそれと決めない限りはどれとは断定できないし、別に断定しなくてもいいんだよ」
「そっかあ……ん? なんの話してたんだっけ?」
「カスパルがなぜ君に劣情を抱かないのかって話だよ」
 話の趣旨を忘れかけたヒルダの問いにリンハルトは淡々と答える。
「……あっ、さっきも言ってたけど、カスパルくんのお家って男女関係でごたごたがあったのよね? もしかして、それで女の人が嫌いになっちゃったのかしら?」
 ヒルダは机に身を乗り出して小声でリンハルトに訊ねる。
「まあ、その可能性がまったくないとは断言できないし、それが原因でその手の話題を避けてるんじゃないかとは僕が言ったことだけど……女性そのものが嫌というわけではないんじゃないかな。級友たちとも親しくしているし、君と二人で旅もしているしね」
「じゃあ、男性機能がないとか……」
「いや、それはあるよ。詳細は省くけど男性機能がないわけじゃない。というか、なんでそこまで外的要因を疑うの? 性欲の希薄さは必ずしも外的要因のせいではないからね?」
 長々と説明してもなお食い下がるヒルダに、リンハルトはうんざりした様子で訊き返す。
 それでもめんどくさがりなリンハルトがこれだけ付き合ってくれているのだから、感謝しなければ……とは、ヒルダとて思っているのだが。
「だってえ……カスパルくん、あたしと二人で旅をしてるのにムラムラしないのよ~?」
「僕は君のその絶対的な自信のほうに驚くよ」
 ヒルダの理屈にもなっていない理屈にリンハルトは呆れを隠さずため息をつく。
「まあ、自信もあるんだけど~……二人で旅をするってそういうことじゃないの?」
「二人旅をする仲だと絶対に交合するものなの? じゃあ、僕とカスパルが旅をしてたら、君は僕たちが交合してないとおかしいと思うのかい?」
「リンハルトくんとカスパルくんは男の子同士なんだから事情が違うでしょ~?」
「男同士なら交合しないのに、男女だと交合するのが当たり前なの?」
「もちろん、誰とでも見境なくって意味じゃ……あっ、そうか。リンハルトくんみたいな人もいるものね」
 ヒルダはそこまで口にしたあと、リンハルトの伴侶が誰であったかを思い出した。
 戦後、リンハルトはかつて担任の教師であった『彼』に求婚し、その後めでたく結婚したのである。それを思うと同性であっても親しい相手と恋愛関係になることはあるし、異性であってもならないこともある――ということなのだろう。
「僕が言いたかったこととはちょっと主旨が違うけど……まあ、そういう観点も大事だよね。見えないものを認識するのは難しいことだから、見えるものから認識していくのもひとつの手だ」
 後半の言葉はほぼ独り言だったのかもしれない。リンハルトの言葉の意味をヒルダが正確に理解するのはまだ難しいようだが、ひとまずはそれでよしと判断してくれたようだ。
「とにかく、遠回しな誘い方をしてもカスパルは気づかないよ。行為そのものが目的なのであれば、率直に『子供を作りたい』って言えば応じてはくれるかもしれないけど。もちろん、カスパルがそれを是と判断すればの話だけどね」
「うーん……でも、あたしは子作りがしたいわけじゃなくて、カスパルくんと触れ合って仲良くしたいのよねえ。その誘い方だと目的が伝わらない気がするっていうか……」
「それなら、その通りに伝えてみたらどうかな? カスパルに触れたい、あるいは触れられたいって、具体的に伝えてみたらどうだろう? 身体的な接触が愛情表現であるという認識はカスパルにもあると思うし、そこから少しずつ触れる範囲を広げてみたらいいんじゃないかな」
「なんだかすご~く気長な話ねえ」
 リンハルトの提案を脳内で吟味しながらヒルダは首を捻る。
 リンハルトの意見は名案のように思えるが、それで本当に上手くいくのだろうか? なにしろ相手はあのカスパルである。接触の度合いを少しずつ上げていったとしても、ヒルダが満足するような成果が得られるまで何年かかるかわからない。いまだって腕を組む程度の接触はしているが、それでいてこうなのだから。
「とはいえ、それでカスパルが君に劣情を抱くとは保証できないけれど……根本的にそういう欲求がないのであれば、他人が何をやってもその気になることはないと思うよ」
 そんなヒルダの杞憂を見越したようにリンハルトは説明を付け加える。
「例えば、世の中には『仲のいい男女は恋愛関係になるのが当たり前であり、やがて交合するのが当たり前である』という認識を持っている人がいる。そういった人の場合、『口付けや抱擁ができるなら慣れればその先もできるだろう』と思うかもしれない。でも、性的な欲求が根本的にない人にとっては、口付けや抱擁といった触れ合いと交合は地続きの行為ではないからね。さっきの僕の案はその辺で誤解を与えそうだったから付け加えさせてもらうけど……」
 リンハルトは『そういった人』に該当するのがヒルダである――とは断定せずに説明を続ける。
 それらの細やかな言葉選びから、リンハルトがきちんと対話しようとしていることはヒルダにも感じ取ることができた。
 リンハルトは自分の意見を押し付けたいわけではなく、ヒルダに理解を求めているのだろう。それはリンハルトへの理解ではなく、カスパルへの理解である。
「リンハルトくんがカスパルくんのことをすご~く心配してることはわかったわ」
「……うん、まあ、それは否定できないね」
 つまり、リンハルトはヒルダがカスパルに無体を働かないかを心配しているのだ。
 むしろ、無体を働いて欲しいのはヒルダのほうなのだが――そういった欲求がある以上は、リンハルトの気持ちを無下にすることもできない。
「心配しなくても、うまくいかなくたってあたしはカスパルくんを嫌いになったりはしないわよ? カスパルくんにその気がないのなら残念ではあるけど、あたしはカスパルくんのそういう……あたしの思い通りに動いてくれないところが好きになったんだからね」
「そっか。それならいいんだけど」
 ヒルダの言葉に多少は安心してくれたのか、言葉を紡ぎ続けていたリンハルトの唇が数分ぶりに茶器に触れる。
「ふふ、でも優しいねリンハルトくん。そんなにカスパルくんのことが心配なのに、あたしに助言してくれるんだ?」
「君と一緒にいることを選んだのはカスパルの意思だからね。それを自体を否定することは僕にはできないよ」
 ヒルダが自由なカスパルに惹かれ、彼にそのままであってほしいと願ったように、リンハルトもまた彼には自由であってほしいのだろう。
 リンハルトはカスパルに対して伴侶という関係こそ求めはしていないが、それは彼にとってカスパルが大切でないということではない。リンハルトの言葉の端々からそれが感じられて、ヒルダはなぜか無性に嬉しくなってしまった。
「あいつも戦争で父親や叔父を亡くしているし……ほかの親族とも数年前に絶縁しているようだから、少しは、ね。心配もするさ。あいつは一人でも生きていける人間だけど、家族との交流は好んでいたから。家族とまでは行かなくとも、君があいつにとって『親しい相手』の一人になってくれるなら僕も安心できるよ。……まあ、あいつにとってはお節介なのかもしれないけどね」
 ガルグ=マクの戦いのあとカスパルが一族と絶縁したこと、そして、カスパルの父親が帝国の将兵の身の安全と引き換えに自ら首を差し出して処刑されたこと――それらの話はもちろんヒルダも聞き及んでいる。
 それに対してカスパル自身はさして気に病んだ様子を見せなかったし、そればかりか「親父はすごい」と言って笑顔すら浮かべていたが、だからこそ慰めることすらできなかったのはリンハルトも同じなのかもしれない。
 悲しくないわけではないのだろう。学生の頃、カスパルの父親がカスパルに寄越したのであろう大量の手紙は、戦時中であってもカスパルの部屋に大切に保管されていたのだから。
「……おっ、ここにいたのか。話はもう終わったのか?」
 話がひと段落したころ、二人を捜していたらしいカスパルが客室に姿を現した。
 カスパルは空いていたヒルダの隣の椅子に腰を下ろし、見慣れない組み合わせを不思議そうに眺めつつ茶菓子をひとつ摘み上げる。
「二人でなんの話してたんだよ? ……あっ、紋章についてとかか? 確かにそれなら、オレじゃ相談役にはなれねえよな」
 ヒルダとリンハルトの共通点がそれくらいしか見つけられなかったらしく、カスパルは一人で納得してうんうんとうなずく。
「違うよ、カスパルの話さ」
「ちょっと~リンハルトくん!?」
 リンハルトがあっさりと密談の内容を伝えると、カスパルはきょとんと目を丸くする。慌てたのはヒルダのほうであった。
「なんだよ、オレの話って?」
「ヒルダがカスパルの好みを知りたいって言うから教えてたんだ」
「オレの好み? そんなもん訊いてどうするんだ?」
 カスパルはますます困惑の色を強めて首を傾げ、ヒルダとリンハルトを交互に見つめる。
 そんなカスパルを見てリンハルトは微笑み、ヒルダは誤魔化すように紅茶を啜った。
「人を好きになると、相手が何を好むのかがとても気になるものなんだよ。カスパルだって心当たりあるだろう?」
「……あっ。そうだ、そうだったな!」
 リンハルトに言われて何かを思い出したらしい。カスパルは外套の懐に手を潜り込ませると、そこから掌に収まる大きさの箱を取り出した。
「どうしたの、カスパルくん?」
 カスパルの唐突な行動に驚いたヒルダは手にしていた茶器を皿に戻しながら訊ねる。
 すると、カスパルは少し照れた様子で頬を掻きながら質問に答えた。
「いや……その……お前にやろうと思ってよ」
「あたしに?」
 箱を手渡されたヒルダは不思議に思いながらも包装を解いて箱を開ける。中に入っていたのは、白い造花で編んだ可愛らしい髪飾りだった。
「これ……」
「お前と旅してると楽しいからさ、なにか礼をしたくってよ。でも、女に何をあげたら喜ぶかなんてわからねえから、リンハルトに相談したんだ。そしたら、髪飾りならいつでも身につけていられるから喜んでくれるだろうって。オレ、洒落たものには詳しくねえから、こういうのでいいのかわからねえんだけど……」
 カスパルは少し照れたように鼻を擦って笑みを浮かべる。
 ヒルダは呆然として髪飾りを見つめていたが、やがて箱の中のそれを大事に手に取って胸に抱いた。
「嬉しい……すっごく嬉しいよカスパルくん! ありがと!」
「そ、そんなにか? 別に大したもんじゃねえぞ?」
 感極まったヒルダはそのままの勢いでカスパルに抱きつく。
 カスパルは驚きながらも、ヒルダの背中に腕を回して抱き返した。
「も~……カスパルくんって、本当にずるいよねえ。まあいっか、って思っちゃうじゃない?」
「? なんの話だ?」
「いいの、こっちの話」
 ヒルダはカスパルの肩口に顔を埋めながら満面の笑みを浮かべる。
 カスパルに対する不満も抱いていたものの、そんなものはこの不器用な愛情表現を前にすればどうでもよくなってしまう。
 そんなヒルダの気持ちを知ってから知らずか、カスパルは不可解そうに瞬きを繰り返していた。
「まあ、その……なんだ、これからもよろしくな」
「うん!」
 ヒルダが顔を上げたとき、そこにはカスパルの照れたような笑顔があった。ヒルダは背伸びをしてカスパルに顔を寄せ、赤らんだ頬に唇を近付ける。
「……仲がいいのはいいことなんだけどね。うちも新婚なんだからちょっとは気を遣ってほしいなあ」
「あっ」
「あっ」
 呆れたようなリンハルトの声で我に返った二人は、ここがヘヴリング邸であることを思い出し慌てて体を離した。
「ご、ごめんねリンハルトくん! あたしったら……」
「悪い、いつもと同じ気分で上がり込んじまった」
「……まあ、別にいいんだけど」
 リンハルトは謝罪する二人を尻目にして茶器に残ったハーブティーを飲み干す。
 ちょうどそんなやりとりをしていたとき、「リンハルト様、カスパル様、失礼いたします」と断りの声が聞こえ、ヘヴリング邸の使用人が客室へと入ってきた。
「なに?」
「先ほどベルグリーズ邸の使者から届け物がありまして……どうやら、カスパル様宛ての緊急の報せのようです」
 リンハルトの簡潔な問いに使用人はうやうやしく答える。
 本来であればカスパル宛の封書がヘヴリング邸にまで転送されるのはおかしな話なのだが、もはやそれを気にする者はヘヴリング邸にはいなかった。
「オレ宛て? しかも緊急って……」
 カスパルは訝しみながらも封書を受け取り、渡された小刀を使って慣れた手付きで封を開ける。中から取り出した書簡を読みながらもカスパルはしばらく怪訝そうな表情を浮かべていたが、途中からその表情は剣呑なものへと変わっていった。
「……すまねえリンハルト、急用ができた! この埋め合わせは必ずするからよ! ヒルダ、行こうぜ!」
「えっ、ええ~? どうしたの急に?」
 カスパルは書簡を読み終えるなり血相を変えて立ち上がり、ヒルダの手を引いて駆け出していく。廊下でカスパルとすれ違った警備兵が「わっ! ……なんだ、またカスパル様か」などとつぶやいていたのは、リンハルトの耳にもしっかりと届いていた。
「……相変わらず騒がしいねえ、カスパルは」
 後に残されたリンハルトは慣れた様子でひとつ欠伸をする。
 このときカスパルが受け取った封書はゴネリル家からの書簡であったらしい。それをリンハルトが知ったのは、ゴネリル家お抱えの騎士となったカスパルと、その主となったヒルダとの婚姻の報せがヘヴリング邸に届いたときのことだった。

 紳士的な級友の話


 午前の鍛錬を終えたカスパルは、汗を拭って衣服を着替えたあと食堂へと向かった。
 授業のない休日であってもカスパルとリンハルトのやることと言えば相変わらずだ。
 カスパルは鍛錬所で汗を流し、リンハルトは自室や資料室で研究に勤しむ。そして、食事どきになると揃って食堂へと向かい、同じ机に椅子を並べて食事をするのだ。
 カスパルは汗を吸った訓練着を袋へとしまい、それを自室に放り込んでから再び一階へと戻る。訓練所と食堂が離れているのは不便ではあったが、それらの設備のちょうど中間に学生寮があるのは寄りやすいという意味ではちょうどよかった。
 洒落っ気とは縁のないカスパルではあったが、汗臭い服を着用して食堂に出入りするほど無頓着ではない。それは貴族という立場によるものでもあるのだが、ベルグリーズ流の厳しい衛生管理を叩き込まれているという理由のほうが大きかった。
 学生寮の前を横切って食堂へと向かう道すがら、カスパルは見知った幼なじみの後ろ姿を見つけて足を止める。
 資料室から食堂に向かう際に学生寮の前を通るのは遠回りなはずだが、学生寮の周囲でリンハルトと合流するのもまた「いつものこと」だった。おそらくは、資料室から借りた本を一度自室へと運んでいるのだろう。
 カスパルはすぐにでもリンハルトに声をかけようとしたが――それを躊躇ったのは、彼が一人ではなく誰かと並んで会話をしていたからだった。
「ねえ君。その制服、士官学校の生徒だろう? ってことは、今日は休日だよね。どうかな、このあと僕と食事でも」
「いえ、僕いまから食堂に行くので……」
 リンハルトに話しかけている若い男は、おそらく大聖堂に従事している者の一人だろう。
 彼らについてカスパルは詳しくないが、騎士団や生徒たちの食事を作る者、建物の修繕をする者、庭の手入れをする者など、大勢の人々の手によってこの設備が維持されていることくらいは知っている。
 士官学校の生徒たちは大半が貴族なので、教員でもない限り気安く話しかけてくる者は少ない。だが、こうして気安く話しかけてくる輩も少なからず存在するのも確かだった。
「そう言わずにさ、おいしいお店を知ってるんだ」
「あの……僕もう行くので……っていうか、僕のこと女生徒だと勘違いしてないかな? はあ、面倒くさい……」
 馴れ馴れしい男の態度にリンハルトは面倒そうに溜息をつく。
 控えめな口調で断るリンハルトに男は勝算でも見出したのか、やや強引にリンハルトの腕を掴んでその足を止めさせた。
「おいっ――」
 さすがに見かねたカスパルが男を咎めようと口を開く。
 しかし、それよりもほんの一瞬だけ早く声を上げた者がいた。
「やあ、リンハルト! 申し訳ない、待たせてしまったかな。訓練が予定より長引いてしまってね」
 食堂に続く曲がり道からリンハルトに声をかけたのはフェルディナントだった。
 あたかもリンハルトと待ち合わせをしていたかのような口ぶりだが、カスパルの知る限りそういった約束は取り付けていないはずだ。おそらくはその場で思いついた方便なのだろう。
「ああ、フェルディナントか」
 リンハルトは助かったとばかりにフェルディナントに向き直る。
 いかにも貴族然とした風体のフェルディナントに男は気後れしたらしく、慌てた様子でリンハルトの腕から手を離した。
「おや、そちらの方はリンハルトのお知り合いかな? すまないが、彼は今日私と約束をしていてね。用事なら明日以降にしてもらえないだろうか?」
 フェルディナントはリンハルトを庇うような立ち位置に移動すると、男の目を見ながらきっぱりと申し出る。
 すると相手はフェルディナントの堂々とした態度に気圧されたらしく、反論するでもなく素直に引き下がっていった。
「助かったよ、フェルディナント」
 リンハルトは男の背中が見えなくなるのを確認してからフェルディナントに礼を述べる。
「いや、礼には及ばない。貴族として風紀を乱すものを見逃すわけにはいかないからな。しかし、君ももっと毅然と断ったほうがいいぞ? ああいう手合いは大人しくしているとつけあがるからな」
「そうは言ってもね……僕はああいうの苦手だからさ」
 リンハルトは心底面倒そうに肩を落とす。
 カスパルはそんなやりとりを遠目から眺めたあと、思い出したように二人へと声をかけた。
「フェルディナント! お前、すっげえな! 話しかけただけであいつ逃げてったぞ!」
「む? カスパルか。私は何も特別なことはしていないぞ?」
「いやいや、お前はすげえよ! さすがだよな。オレ、殴って追い払おうと思ったところだったぜ」
 さも当然と言わんばかりのフェルディナントにカスパルはなおも称賛の声を投げかける。
 カスパルがフェルディナントと同じように声をかけたところで、うるさい子供が割り込んできたとばかりに追い払われたに違いない。
 そうなるともうカスパルとしては実力行使に出るしかないわけだが、言葉と雰囲気だけで事態を収束させてしまうのがフェルディナントの優れたところだった。
「殴るって……それはさすがに物騒すぎないかい、カスパル。やれやれ、フェルディナントが近くにいてくれたおかげで余計な揉め事に巻き込まれずに済んだよ」
 カスパルが男を殴った場合に発生したであろう面倒ごとを想像したリンハルトは、心底うんざりしたように溜息をつく。
 その状況を満更でもないと感じている部分もリンハルトの中には存在するわけだが――いずれにせよ、面倒ごとは起こらないに限るというのが本音だった。

 それから数日後、カスパルはフェルディナントと共に訓練所で斧術の鍛錬を行っていた。
 斧はその重量と重心の偏りから取り扱いが難しく、斧術を極めるには長年の修練が必要となる。二人はそれぞれ訓練用の斧を持ち、互いに撃ち合って研鑽を積むことに励んでいた。
「しかし、カスパルは大したものだな。このように小さな体でこれほど重い武器を使いこなすとは!」
 鍛錬に一区切りがついたころ、フェルディナントは汗を拭いながらカスパルに声をかける。
 それはフェルディナントの素直な賞賛の気持ちだった。体格に恵まれたフェルディナントですら疲労を感じる斧術の訓練だったが、カスパルはこの小柄さでありながらほかの生徒たちに遅れを取っていないのだ。
「おう、ありがとうな! まあオレは確かにほかのやつより小せえけどよ、鍛錬の量じゃ誰にも負けねえぜ」
 カスパルはフェルディナントの褒め言葉に屈託のない笑顔で応える。
 額や頬にはフェルディナントと同様に玉のような汗をかいていたが、カスパルの表情にさしたる疲労感は感じられない。
 その体力にフェルディナントは再び感心しつつ、予備の手拭いをカスパルへと差し出す。
「ふむ、君は身体的な不利を鍛錬の量で補っているのだな。だが、それだけで大きな武器を振り回すことはできまい。何かコツのようなものがあるのだろう? やはりベルグリーズ流ならではの斧術があるのだろうか?」
 疑問を投げかけるフェルディナントに対して、カスパルは手拭いを受け取ってから軽く首を傾げた。
「うーん、そうだなあ……力だけで振り回そうとすると斧の重量に体が持ってかれちまうからよ、振り上げるときに上半身は使わずに膝と腰を使うっつうか……こういうのは口で言うより実際にやってみたほうがわかりやすいよな」
 カスパルは訓練用の斧を手に取って実際に何度か素振りをしてみせる。
 そうしてお互いの技を見せ合い、ああでもないこうでもないと議論を重ねていくうちに、二人はすっかりと意気投合したのだった。

「カスパルくん、少しいいかな? さっきの動きについてなんだけど」
 そうして鍛錬を重ねて数日が経ったころ、相も変わらず鍛錬をしていたカスパルに声をかける者の姿があった。
 その男は教員ではなく騎士だったが、しばしば鍛錬所に顔を出しては実戦経験を元にした戦術指南を生徒たちに教授して回っている。カスパルもこの騎士から指南を受けるのは初めてではなく、疑いもなくその言葉に耳を傾けた。
「おう、いいぜ! どこを直せばいい?」
 カスパルは訓練用の斧を手に取って男に駆け寄る。
 男は手招きをしてカスパルを訓練所の隅に誘導すると、斧を構える際の姿勢についての教授を始めた。
「重心が少しずれている気がするんだよね。もっと脚を開いて……そうそう、そんな感じに」
 男はカスパルの肩や太腿に触れながら姿勢の矯正を行う。その手が脇の下や内腿、果ては臀部にまで伸びてこようが、カスパルは疑問に思うこともなく男の指南を真剣に聞いていた。
 その違和感に最初に気がついたのは、二人のやりとりを傍から眺めていたフェルディナントである。
 この騎士はフェルディナントにも剣や槍の指南をしたことがあるが、あのように無遠慮に体に触れてきたことはなかった。
 加えて、ほかの学級のアッシュやイグナーツらが「あの騎士は苦手だ」という話をしていた記憶が、彼にひとつの可能性を想起させたのである。
「やあ、騎士殿! すまないが、私にも斧術のご指導を願えないだろうか?」
 フェルディナントは二人の会話に割り込みつつ、カスパルの肌に触れていた男の手をさりげなく引き剥がす。
 その力が存外に強かったことに男は一瞬驚いたような顔を見せたが、フェルディナントはその反応を気にも留めずカスパルとの間に割って入った。
「えーっと、君は……」
 突然割り込んできたフェルディナントに男は困惑した様子を見せる。
「これは失礼した! 私はフェルディナント=フォン=エーギルという。貴殿の斧術には以前から興味があってな、今日はぜひともご教授を願いたい!」
 フェルディナントは人好きのするような笑顔を浮かべて男へと手を差し出す。
「あ、ああ……構わないよ」
 男は一瞬戸惑ったものの、フェルディナントの態度に気圧されるように握手に応じた。
「ありがとう! いやはや、貴殿のような優秀な方から指南を受けられるとは光栄だ!」
 フェルディナントは大仰に喜んでみせると、男の手を掴んだまま訓練場の中央へと歩いていく。
 残されたカスパルはフェルディナントの背中を眺めながら「あいつ、そんなにあのおっさんの訓練を受けたかったのか」と見当違いなことを考えていた。

 夕方になり鍛錬所が閉鎖されたあと、帰路に着くカスパルに声をかける者があった。同じく訓練を終えたばかりのフェルディナントである。
「カスパル、君はもう少し警戒心を持つべきだ」
「? どういう意味だ?」
 脈絡もなく告げれらた警告の意味がわからず、カスパルは訝しげに眉根を寄せた。
「先ほどの騎士殿のことだが、彼の指南を受けているときに妙なことをされなかったか?」
「妙なこと? いや、斧の握り方とか構え方を教えてくれただけで別に何もねえよ」
 カスパルはきょとんとした顔で質問に答える。
 その反応にフェルディナントは肩を落として呆れたように溜め息をついた。
「アッシュやイグナーツが言っていたのだ。あの騎士は必要以上に体に触れてくるのだと……おそらくは、彼らや君のような小柄な少年を好む輩なのだろう。まったく、あのような不埒な男が騎士団の中にいるとは嘆かわしい」
 フェルディナントは憤慨しながら腕を組む。
 本音を言えばすぐにでも騎士団の上層部に通報して、あの騎士が生徒と接触することを禁じてほしいというのが彼の気持ちだ。
 だが、被害に遭っている生徒が鈍感なカスパルや、内気なアッシュやイグナーツであるために、本人たちから証言させるのが厳しいというのが現状だった。
 おそらくあの男はそこまでを見越して相手を選んでいるのだ。それがまた狡猾で腹立たしく、フェルディナントは整った目鼻を険しく眇める。
 しかし、カスパルはまだ腑に落ちないらしく首を傾げるばかりだった。
「つまり、あのおっさんはオレやそいつらと交合したがってるってことか?」
「そっ……うむ、まあ……その解釈で間違いはないだろうな」
 あまりにも明け透けな物言いにフェルディナントは面食らうが、カスパルの理解が深まったのならと言葉を濁しつつ頷く。
「ははっ、そりゃ考えすぎだろ。オレにそんな気を起こすなんて、よほど物好きでもなきゃありえねえよ」
 カスパルは他人事のようにからからと笑うが、フェルディナントはなおも渋面を浮かべている。
「まあ、君が構わないなら私がこれ以上口出しすることではないのかもしれないが……いちおう忠告はしておく。もしまたあの騎士に声をかけられても、決してついて行ってはいけないからな」
 そう念押ししてフェルディナントはカスパルと別れたのだった。

「そういや前にそんなこともあったなあ」
 五年後――学生時代と変わらず大聖堂の食堂を利用していたカスパルは、ふいに思い出した話をリンハルトに語り聞かせていた。
「それ、僕は初めて聞いたけど……その後は大丈夫だったのかい?」
 リンハルトは怪訝そうに眉を顰めながら尋ねる。リンハルト自身もそういった手合いに困らされていたのもあり、軽く聞き流すわけにはいかなかったのだ。
「おう、別になんともなかったぜ! なんか知らねえけど鍛錬中はだいたいフェルディナントが近くにいたしよ」
「……フェルディナントには後でお礼を言っておかないとね」
 カスパルの返答にリンハルトは安堵と呆れ混じりのため息をついた。
 生真面目なフェルディナントのことだ。おそらくカスパルやほかの生徒の身に危険が及ぶ前に未然に防ごうと目を光らせていたのだろう。その律儀さに敬服するいっぽうで、同時によくやるものだという呆れも湧いてくる。
 そして、そんなフェルディナントの憂慮をよく理解していない様子の幼なじみに対してもまた、不安と同時に呆れが湧き上がるのだった。
「カスパルはよくわかってないみたいだけどね、今度そういう輩に遭遇したらきちんと断るか、断ってだめなら殴ったほうがいいよ。取り返しのつかないことになってからじゃ遅いからね」
「なんだよ、リンハルト。いつもは面倒ごとになるからすぐ喧嘩するのはやめろって言うのによ」
「そうしないともっと面倒なことになるって意味だよ。いっそ具体的に説明したほうがいいのかなあ」
 リンハルトは肩を竦めて溜息をつく。
 具体的に説明したほうがいいとは思うものの、カスパルの性知識の希薄さを鑑みると、それを説明するためには膨大な時間を要することになるだろう。
 その予想がつくだけにきちんと説明する気も起きず、けっきょく曖昧な注意喚起だけをして終わることになるが常だった。
 カスパルはそんなリンハルトの態度に納得がいかないらしく、不満そうに唇を尖らせては眉を顰めるばかりだった。

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